くすんだ白木の扉を開ける。乾きすぎて鳴らない鈴がかすれた音を立てた。バーのマスターはちらりと5thを見ると、顎でカウンターを示した。そこに案の定、9thの姿があった。赤い短髪、酒にぬれたくちびる。隆起する体は緑のつなぎに隠れている。麻薬組織を解体した後のはずだが、ほころびも傷もなく、悠々とグラスを傾けている。とろりとした黄金色の液体が靄を描いた。 「お待たせ」 「先に飲んでるわ」 9thはグラスを掲げると、そのまま一気に飲み干した。相変わらずいい飲みっぷりだ。5thもウィスキーを頼み、9thと無言でグラスを交わした。今日は特別な日なのだ。 9thはしばし、黙祷した。伏した瞼がわずかに震えている。5thも軽く祈りを捧げ、すぐに顔を上げた。 「悪いわね。毎度付き合ってもらって」 「いいさ。俺も関わりが深いんだ」 9thは何も言わなかった。くちびるだけは「そうね」と動いていた。5thはまず一口飲むと、そっとグラスを置いた。 「もう何年も経つんだな、あれから」 「そうね。月日が経つのは早いわ」 二人は遠く思い起こす。そこにある景色はいつでも取り出せて、色あせない。だからこそ二人は共にグラスを交わし、過去に耽るのだ。 ―シルヴィを保護して数ヶ月後。子供は母の体をいたわるように流れていった。あっけなかった。ほんの一瞬で命は消えたのだ。この世に出ることもなく、母親の胎内だけを知って。 シルヴィはしばらくぼんやりとしていた。事実を徐々に吸収しているように見えた。その間、5thはもちろん、キシュリーも6thもオーリスも何も言えなかった。言えるはずがなかった。 そうして数日後、見舞いに訪れた5thに彼女はぽつりとつぶやいた。 「生まれてもあなたは不自由でしかない。父はおろか、自分の体さえ不自由。そんな世界に産み落としたくない。本当はそう思っていたわ。でも殺したくなかった。私の大切な子供だから」 5thにというより、ただ自白しているだけのようだった。シルヴィは大切そうに両手を包んだ。そこにはいるはずのない赤子の姿が見えた気がした。 「何が何でも産みたいと願っていたはずなのに。心のどこかでは産みたくないと思っていた。それが伝わったのね」 シルヴィは泣かなかった。震えてはいたものの、顔は鉄壁のままだ。5thは隣に寄り添わなかった。代わりに彼女の前にしゃがみ、そっと手を取った。 「我慢しない方がいい」 「泣けというの?泣かないわ。涙は流れない。人には人の悲しみ方がある」 5thは虚を衝かれた。急いで手を離すと俯いた。シルヴィの青白い足が見える。やはり震えていた。 「無神経だった・・・すまん」 「あなたの誠意はわかるから、謝らないで。でも一人にして」 「わかった」 本当なら目を離すべきではない。このまま自害を決めてしまう人も少なくない。シルヴィには十分理由があるが、5thは彼女が自害するとは思えなかった。 シルヴィは妻、母、たった今子供を亡くした女、男女の性差すら全部超えた一人の人間としての強さが、人一倍あった。 その強さがシルヴィを9thに変えた。 5thは苦々しくもくつくつと笑うと、グラスを傾けた。 「驚いたっけなあ。まさかシルヴィがドラッグコントロールに入るだなんて。しかも9の字」 「必死だったのよ。復讐じゃない。そんな心はない。懺悔でもない。それはあの子を傷つける。だから、せめてあの子みたいな人が増えないよう、ただそれだけを願った」 「その結果が、ここか。でも現実は違っただろう?消しても消しても増えるばかり。麻薬は怖いな」 「本当ね。でも私たちが消さなければ増える一方。・・・私たちが消しているから対抗しようとして増えているのかもしれないけれど」 9thは珍しく苦笑し、肩をすくめた。しかし灰色の瞳は凛と輝いている。 「どちらにしても、麻薬は消すべきよ」 9thはシルヴィの時から比べると、変わらないように見える。端麗な石膏像に似た堅い顔、抑揚のない声、冷たい瞳。言葉も素っ気なく、淡々としている。だがやはりあの日から何かが違う。肉体が強靭になり、5th並の腕力を得た部分ももちろんあるが(5thは当初、かなり驚いた)、肉体以上に心も強くなった。その強さを示すように、流れた子の墓はなかった。胸にあるから忘れない・・・そう言って、亡骸はどこかへと葬られた。5thもどこにあるかは知らない。 彼女の夫であったアレンという男が死んだときも彼女は何の興味も示さなかった。そこに感情はまるでない。かつての愛も恨みもない。麻薬組織に殺された、その事実だけを受け入れていた。その瞳は初めて見たあの色と変わらなかった。 「でも、時々思うわ。あの子が生きていたら。どんな女の子になってたか」 想像でもしているのか、9thに柔らかいものが灯る。5thも笑い、ウィスキーを飲み干した。 「そりゃ、9thに似て辛い女になってただろうよ」 「辛い、ね・・・」 「でもそうしたら、ドラッグコントロールはにぎやかくなってただろうよ。さしずめ、俺はお父さんか?年齢的にも近いしなあ。どうだ?」 「悪い冗談ね。あなたが父親だったら、大変な子になりそう」 何の冗談もなく言う9thに5thはひきつった。彼の言うところの辛い、という意味がよくわかる瞬間だ。 だが、9thの子供が産まれ育ったとしても5thは父親にならなかっただろう。シルヴィはホシの身内であり、彼女と子供は保護すべき存在。そして自分はドラッグコントロール。それ以上の感情も関係も5thの中にはなかった。彼女は美しいが、とにかく辛いのだ。 だから生まれていたとしたらシルヴィとの関係はそこまでになっていた。少なくても、こうして友人としてグラスは交わさなかっただろう。 「縁ってやつはよお、不思議なもんだよなあ」 「本当に。過ぎ去って、振り返ってみると、複雑な気持ちになる。こうなるためにそうなったのか。そうなるためにこうなったのか」 二人はもう一杯頼んだ。再びグラスを交わし、二口ほど飲む。氷の涼しげな音が静かに響いた。 「9th。後悔・・・してるか?」 「してるわ」 9thにしては珍しい答えが返ってきた。グラスから露が流れた。 「後悔が痛くて苦しい。振り返って手を取りたくなる。でも今は今よ。現在はここ以外存在しない」 相変わらずすごい女だ。割り切っているわけではない。それが事実だから受け入れているのだ。 「いつの時代も、お前さんはすごい人だなあ」 5thはスキンヘッドを撫でると、ため息混じりにウィスキーを口に放り込んだ。 「さて、食前酒はこれでいいだろ?そろそろ・・・飲み比べといこうじゃないか。先にダウンした方がおごる」 「マスターが悲鳴を上げた場合は?」 「その時はボスに請求してやろう」 「いい案だわ」 二人はいたずらな笑みを浮かべると、同時にウィスキーを注文した。 おわり
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