穏やかな寝息がかすかに響き始める。

 耳を澄まさなければわからないほど小さなその呼吸はぽん、と抜き取ったような静かな空間をゆっくりと暖めていく。

 まどろんでいく空間にイツキは一人瞼を開けぼんやりと天井を仰いだ。

 一息つく。

 瞼を閉じたが赤いモールス信号のような自分のけたたましい毛細血管に起こされてしまう。何もなく、ただ眠りたいだけなのに体内がざわめいていて寝かせてくれないのだ。

 もう何日目だろうか。

 数えていないが、もう気がつけばこのように眠れない状態が続いていた。沈むように眠っていたい。この黒い天井のように。

「・・・・・・・・・・」

 イツキはちらりと横目で隣を見る。小さな背中がゆっくりと呼吸している。

「・・・・・完全に寝た、か・・・・」

 イツキは隣で眠るタイザーを起こさないようにゆっくりと起き上がり、布団から抜け出した。とたんに寒さが足元から襲ってきたが、それでもイツキはベッドから離れる。―逃げるように。

「・・・・・・・・」

 イツキは何も考えずにぼんやりとタイザーを見つめる。

 小さな体は起きず、ただ眠っている。その体から発する穏やかな空気は見ているだけで春の日差しを浴びるように温まるが、不思議と眠気は来なかった。

「ん・・・・・・・」

 小さな体がもぞもぞと動き、ころんと寝返る。

「幸せそーに眠って・・・・・羨ましいかぎりだ・・・・・」

 イツキは一人ぼやいてタイザーの額に触れた。生ぬるい体温が心地いい。

「・・・・・・・・・・」

 手を放し、数秒、タイザーの幼い寝顔を見つめるとイツキは音もなく部屋から出た。





 夜でも砂漠は眠ることを知らない。風が吹けば細かな砂粒は舞い上がり、星のように瞬いては落ちていく。

 しかしざり、と歩くたびに、踏みしめるたびに沈む足元は夢の中のまどろみのようだ。永遠に続く、夢という名の記憶の道。

 だからイツキは砂漠が苦手だった。歩いていると囚われて抜け出せなくなりそうだ。

 ―ガキみてぇだな、俺。

 一人自嘲めいたつぶやきを心の中で言うと、イツキはぶらぶらとポケットに手をつっこみながら歩いていった。





 乾いた鈴の音が控えめに店内に響く。

「・・・・・もう終わりか?」

 見渡すと、バーの店内に人はいなかった。
 カウンターに佇む少し中年太りしたマスターに問いかけたが、無言で睨み返された。夜もかなり更け、人々は眠りに沈む時間帯。おそらくマスターも店を閉めようとしたのだろう。店内に響く音楽は消えていた。

 イツキは苦笑いを浮かべながら肩をすくめ、それでも一番奥のカウンター席に腰掛けた。
 マスターはもう一度睨んだが、それでもイツキが「適当にウィスキー」と頼むといかにもしぶしぶといった感じだったが、すぐに用意を始めた。

 音楽の消えた空間に氷の涼しげな音だけがささやき、イツキは頬を突いて軽く目を瞑り氷とウィスキーが注がれる音を堪能した。

 アルコールの熱で溶けた氷が静かに崩壊する。涼しく、寂しい音だ。

「・・・・・一人?」

 イツキはゆっくり目を開け、声の主を見ずに「ああ」と低くつぶやいた。

「寂しい人ね」
「そういうあんたもな・・・・9th」

 イツキは再び目を瞑り、置かれたウィスキーをくちびるに湿らせた。

「・・・・また姉貴に何か言われたのか?」

 静かにグラスを置き、ようやく9thの方を向いた。

「そうね。監視を頼まれている」
「仕事熱心だな・・・・・。ったく、監視される身にもなれっつーんだ」

 9thは素っ気無く「そう」と頷きながら隣に座り「私も同じのを」と注文した。

 9thはいつも通り、緑色のつなぎという色気のない姿をしていた。しかし流れるようなしなやかな白い首筋やくっきりと浮かび上がる鎖骨、少し露出した腹部・・・・・所々露になる部分からは耐え難い色気を放っていた。赤いショートカットに切れ長の灰色の瞳も、彫刻のように整っている。服装などではごまかされない、惹きつけられるものが確かに詰まっていて、さすがのイツキもよろめきそうになった。

「タイザーちゃんはどうしたの?」
「もちろん、ぐっすり寝てるさ」
「連れて来ないの?いつも一緒にいるのに」
「・・・・たまにはガキから離れたいときもあるんだ。・・・・・・ずっといると女ともやれねえからな」

 からん、とまた新しく氷が崩れる。

 9thはぐっと半分までウィスキーを飲むと軽く蔑むような目でイツキを見て、一口含んだ。

「相変わらず恐ろしい飲みっぷりだな。すぐに酔うぞ、普通だったら」
「そうかしら。・・・・・こんなもので酔える方が不思議ね」
「・・・・・9thはいつも酔わねえな。・・・・・酔った方が楽な時だってあるだろ?」

 黄金色の液体がとろりと揺れ、9thの整ったくちびるから一気に喉に流れていく。氷のみになったグラスは白く瞬く。

 9thはおかわりを注文すると、ぴしっと整った背筋を少し崩して肘を突いた。

「・・・・・酔えば楽、と思ったら大間違いよ」
「そうかぁ?」
「酒に酔って・・・麻薬に酔って・・・・そしてあなたの場合、女に酔って・・・・。・・・・楽なのはほんの一瞬。全て夢よ」

 イツキは頬を引きつらせ、ウィスキーを一口大目に含んだ。
 しびれるようなアルコールが喉を、胃を通っていくのがわかる。そしてくまなく血液がいきわたり体中を暖めていく。しかし暖めていくだけで満たされるものは何もない。イツキは軽い欲望を覚え、もう一口飲んだ。

「・・・相変わらず・・・辛いことしか言えねぇんだな」
「あなたが甘いだけだと思うわ」

 新しいグラスが置かれ、9thは先ほどと同じペースでウィスキーを飲んだ。

「じゃー甘い俺をもっと甘やかしてくれよ、9th」

 9thは軽く鼻で笑い、さらに飲んだ。

「慰めは他で」
「いいじゃねえか」

 9thはさらに肩を揺らして笑う。

「よくないわ。甘い人は甘い人を求めればいい」
「・・・・からー・・・・」

 イツキは吐き出すように舌をだし、そっぽを向いてグラスを傾けた。そうしている間も9thは静かに笑い、飲み干す。

 ふいにじじ、と砂の音に似た雑音が響く。しばらく安定しない音が続きーそしてそれは音楽となり、ゆっくりと店内を舐め始めた。気だるそうな女の声が低いジャズを奏でる。

「・・・・・Yesterdayか・・・・・・」

 イツキは苦笑しながらグラスをゆっくり置いた。

「・・・・・Yesterday?そういう曲かしら」
「そうさ。昨日を歌うっつー・・・・寂しい曲だ」

 哀愁帯びる低い声がまるでウィスキーのように濃厚に、しっとりと歌い上げる。それは気だるい声質と混じり、店内はたっぷりと生温い液体に満たされていく。

「そう・・・昨日、ね・・・・。あなたは怖いのかしら?」
「・・・・・・Yesterdayが、か?」

 9thは空になったグラスからにじみ出る水滴を指先で撫でる。つつ、と集まる水玉は鈍くきらめきまるで星のようだった。

 イツキも同じように水滴を拭う。

「・・・・・・どうだろうな。・・・・・ただ、「今日」や「明日」よりも確かな響きがあるな」
「それは確実に歩んだ瞬間、だから?」
「・・・・・・かもな」

 つぅ、と水滴が流れる。冷たい感触を感じながらイツキは目を瞑る。

「確かすぎる感覚さ。・・・・・どうせお前は「思い出になんて浸れない」とか言うんだろ?」

 9thも目を瞑り「そうね・・・・」とため息混じりにつぶやく。

「そう・・・・言えたらいいわね。生憎と・・・・・過ぎた日々を浸れるほど美化できないのよ。・・・・昨日を思い出と呼ぶまで昇華できないわ」
「へえ・・・・・・珍しいな」

 たぽん、と薄くなったウィスキーに氷が沈んでいく。イツキは新しいのを頼み、9thの前に置いた。

「・・・何?」

 イツキは薄くなったウィスキーを飲み、にやりと猫のようにくちびるを引き上げて笑った。

「意外と弱えー部分のある9thに乾杯」

 そしてけけけ、と肩を揺らして笑い、持っているグラスをかちんと合わせた。しかし9thは笑わず「いらない」とぴりっとした声で言った。

「あなたに奢ってもらうほど弱くも甘くもないわ」
「ひっでぇな・・・・・・。一応男だぜ?俺は」
「男か女かで決まっていたら、あなたは一人で旅してるはずよ。・・・第一、それはタイザーちゃんのお金でしょう?」
「・・・・・お見通しデスカ・・・・。・・・・・・ま、確かにそうだな・・・・」

 つまらなそうに氷の溶けきったウィスキーを飲み干し、軽くくちびるを拭う。

「・・・一人旅どころか旅すら出てねえな」
「・・・・・そうね。・・・・・話が反れたわね」
「そうか?別に最初から一本筋立った話はしてねえからな。・・・どうでもいいさ」

 ・・・・・・・・Yesterday・・・
 Yesterday
 Yesterday・・・・・・・・

 何度も繰り返す「昨日」という単語。薄暗い店内に染み込んでいく。

 イツキと9thはしばし黙り込み、かすれていく声と消え行く「Yesterday」に耳を傾けた。

 二人の前に置いてあるグラスの氷が溶けきった。

 9thは先に目を開け「お先に。失礼するわ」と代金を置き、立ち上がった。立ち上がる仕草までぴりっと辛く、どこか機械的だった。

「ああ」

 イツキはよれよれとひょろひょろの身体を持ち上げるように立ち、ポケットを漁った。

 ちゃりん、と小銭がカウンターに出される。イツキはゆっくりと顔を上げ、9thを見上げた。

「何のまねだ?」
「奢るわ。寂しいあなたと、Yesterdayに」

 イツキは何も言えず、ただ肩をすくめた。

「だから、寂しい俺を甘やかしてくれって」
「何度も言わせないで。他をあたるか・・・・タイザーちゃんは?」
「バカ言うなよ。ガキなんか食ってもうまくねえよ。俺は熟しててうまそ〜な姉ちゃんが好みでね・・・辛いこと言わなければあんたもいいと思うんだけどな」

 イツキはにやにやと笑いながら手をのばしたが、即座にはたかれてうめいた。

「って・・・・・・何も叩くことはねえだろ・・・・・」
「・・・・・本当に甘い・・・いえ、ばかね。・・・・・お母さんを欲しがる子供みたい」
「・・・・・よく言われるな」

 イツキは手をさすりながら今度は苦笑いを浮かべた。9thは目を軽く瞑って鼻から息を漏らした。

「いい加減、親離れしないと苦労するわよ」
「・・・・・まさか9thにこんな言われるとはな。すっかりガキ扱いだ」
「あなたは会った最初から子供よ。私から見れば」
「ひでぇ・・・・・・」

 二人は同時に店内を出る。からんと鈴の音が鳴るはずだったが、舞い上がる砂粒に掻き消えた。
 ふと、9thは鋭い目をさらに細めてイツキを見る。

「・・・・本当に煙草吸わないのね」
「・・・・吸いたいんだけどな。どうも・・・吸えねえんだよな・・・・。・・・代わりに女が欲しいな」
「あなたは・・・・そればっかりね。あきれるわ」

 でも、と9thは目線をそらして続ける。

「きっと体内が不安なのね」
「だからー」
「しつこい男は嫌われるわ。・・・・じゃあ、行くわね」

 イツキは軽く舌打ちをしながら苦々しく「ああ」とぼやく。

「・・・・・病気のこと、ちゃんと言った方がいいわよ」
「・・・・ガキが泣くのは面倒だからな・・言わねえよ」
「・・・・そう。とやかくはいわなけれど・・・・意外と気づかれてるものよ。・・・お互いが本当に辛くなる前に言った方が・・・・楽なときもあるわ」

 イツキは眉をひそめ、大きく息をついた。

「お前は・・・・どうしても物事を辛い方向にもっていきたいらしいな」
「さっきも言ったとおり、あなたが甘いからそう思うのよ。・・・・じゃあ」

 ふ、と砂漠が軽く夜空に噴きあがる。イツキの瞬きが終わると同時に9thの姿は掻き消え、足元に砂粒が絡みつく。

 ぼさぼさの黒い髪が余韻の風に吹かれ、なびいた。

 イツキはゆっくりと瞬きを数回すると、よれよれと砂漠を引きずるように宿に戻った。






 音を立てないように扉を開け、ベッドに歩む。空間は相変わらず暖かく、そこに立っているだけで心地よい。

「ん・・・・・・・」

 ころころとタイザーはベッドの上を転がり、小動物のように顔を枕にこすり付けた。

「ん・・・・んー・・・・・・」

 ぼんやりと大きく丸い瞳が開く。まるで生まれたての動物のように寝ぼけてよく見えない目で辺りを確認し始めた。

「・・・れ・・・・・?」

 もう一度顔を擦りつけ、上半身を起こす。ほわん、と弾むように茶色いくせ毛が妙な方向に曲がりイツキは思わず笑った。

「・・・・っき・・・−?」

 タイザーの目がぱっと開き、みるみる瞳孔が縮まっていく。それは確信したくない事実を突きつけられそうになる恐怖に似ていた。

「いっきー・・・!」

 ぱ、と扉の方を急いで向く。

「よお」
「・・・いっきー・・・・?・・・・どうしておきてるの・・・・?」

 タイザーはほっと息をつき、いきり立った肩をゆっくり降ろして瞬きを一回した。

「あー・・・あー」

 イツキはばつの悪そうな表情を浮かべ、そっぽを向いて頭をかいた。しばらくうなり、ややあってぴっと人差し指を立てた。

「女をー」
「・・・・変態」
「・・・・まだ何も言ってねえだろ・・・・・」
「・・・なんだよ・・・心配して損しちゃった・・・・」
「ん?何か言ったか?」

 タイザーは素早く布団のを被って「知らない!」と甲高い声で叫びながら寝転んだ。イツキはやれやれと息をつき、布団をめくった。

「やだ、寒い!」

 しかし引きちぎるようにタイザーは急いで布団をイツキから奪う。

「・・・・あ、あのなあ・・・・。それじゃあ俺がベッドに入れない・・・・・」
「いっきーは床で寝てよ!」
「お・・・おいおい!どーゆーことだっ」

 タイザーはくるりと身体を半回転させ、大きな瞳でぐっと睨み「変態は床なの!」ときっぱり言い放ちまた背を向けた。

「第一女とやるのは男の性・・・・いや、人間の三大欲求だぞ!」
「やだ!」

 タイザーは叫びながら強く布団を握り締める。

「いっきーは単なる変態だもん!」
「変態じゃねえって・・・・。・・・お、じゃあ・・・・」

 きし、とベッドが軋む。

「お前にも三大欲求の楽しさを教えてやろうか?」

 タイザーに降り注ぐ月明かりがふっと消える。タイザーは恐る恐る目だけを移動させる。

 見るとイツキがタイザーの側まで・・・いや、覆いかぶさるようにイツキはベッドに手を付いた。スプリングは軋み、少し歪んだ。

「・・・・・・・・・・・!!」

 タイザーは魚のように口だけぱくぱくと動かすと素早い動作で両手を上に向ける。

「撃つよ!?」

 ぬらりと光る黒い塊がイツキの懐を狙う。

「・・・・ったく・・・そればっかりだな。凶暴なガキはこえー・・・」

 イツキは軽口をたたいたが、頬にはしっかり冷や汗が流れていた。タイザーはふうふうと息荒く、顔を真っ赤に腫れ上がらせていたが両手のルガーP90はしっかりとイツキを狙っていた。

「早く離れてよ、変態!」
「わあーったよ。・・・・だからそれを降ろせって・・・・。ったく、冗談だってのに・・しゃれになんねえぞ・・・・」

 二人は同時にゆっくりルガーP90そして身体をどかせる。イツキはその拍子に布団を奪い、寝転がった。

 先ほどまでタイザーが眠っていたせいか、布団は今すぐ穏やかに眠れそうな心地よい温度になっていた。

「あ〜!」
「うるせえな・・・・。・・・・ほら、さっさと寝ろよ」
「・・・・いっきーが僕の眠りを邪魔したのに・・・・・!」
「へいへい。あんまり気にすると胸がなくなるぞ〜」
「なくなんないよ!撃つよ!?」

 イツキは甲高い声から逃げるように反対を向いて布団に丸まった。

 タイザーはしばらくくちびるを尖らせてぶうぶうと何か文句を言っていたが、イツキが何も言ってこなくなったのでしぶしぶ布団の中に戻った。

「・・・・・おやすみ」
「・・・ああ」

 二人は背を向け合う。

「・・・・・・今日はYesterdayに、か・・・・・・」

 イツキはぼんやりとまどろんでく思考に身体を預ける。

 やがてアルコールに浸る氷のように思考も溶けー部屋の中は静寂に還る。


 星の瞬きも砂の囁きも消え、夜は更けていきそして月だけが柔らかく微笑んで、夜は過ぎ行きー・・・・全てYesterdayへと過ぎ行く―。


おわり

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