18・甘く苦い煙草 二年・・・・いや、それより昔。今は遠い。 思い出は甘い煙草の味と似ている。 隣で気持ちよさそうに眠る女を横目に、イツキは枕に寄りかかる。 少し息を吐き、机に放り投げたままの煙草を手を伸ばして掴む。 見慣れた緑色の箱。 いつもポケットに突っ込んでいるのでくしゃくしゃになっている。たまに折れていて悔しい思いをしたりもしている。 まじまじと眺め、とん、と軽く一本取り出してくわえる。火をつけなくてもフィルターが甘い。じんわりと、飴のようにだるい甘さが唾液と交じって口の中を満たしていく。 まるであの女とキスするような。渋くていい思い出が蘇ってくる。 唾液でしんなりしたフィルターが少し苦くなった。 Heaven? 熱い吐息を漏らし、女は髪をかきあげる。甘い芳香が立ち上り、全てを吸い尽くそうと男は女の首筋にくちびるを押し当てる。 「イツキって」 女はイツキの黒髪を撫でながら笑う。 「なんだよ」 「も〜くすぐったい〜」 女はイツキの頭をどけようと必死に黒髪を引っ張るが、イツキは動かず首筋にかじりつく。 「あははは!もう、やめってば!」 イツキはようやくやめたが、まだ物足りなさそうにくちびるを尖らせた。女はまだ余韻の残るかすれた笑い声をもらしながら涙をぬぐった。 「くすぐったいのは禁止よ。もう、イツキって子供みたい」 「俺、まだ子供だよ〜」 「甘えん坊なんだからー」 ぺし、と頭を叩いてまた笑う。 「言いたいことはそれか?」 女は首を振る。 「違うわ。・・・イツキって、恋したことある?」 「はあ?何言ってるんだよ。俺は今のあんたにめろめろ〜」 「ふざけないで」 「ふざけてなんかねえよ。俺は今のあんたが好きさ」 女は少しため息をついてイツキの頭を撫でた。 「今の、私でしょ?体さえくれれば誰だっていいくせに」 「そんなことねえよ」 撫でる女の手をとり、ガラスに触れるように口付けをする。 「本当?」 「本当、本当。どーしてんなこと言うかなあ?こーんなに好きなのに?」 「そんな気がしたのよ。でも私のこと、しばらくしたらやめるでしょ。きっとどんな女の子にもそうしていくわね。寂しい子」 女もイツキの頭を抱え、唇を当てる。 「本気で人を好きになれないのね」 イツキは答えず、じっと女を見る。女はただ悲しそうに、哀れむように笑みを浮かべた。 「だから馬鹿みたいに女を抱いてる」 女は手を伸ばし、煙草を掴んだ。箱から細身の煙草を取り、くわえる。 イツキはじっとそのしぐさを見る。まだ熱を帯びる艶めく指がコマを送るようにゆっくりと、ライターを弾く。 噴出す火が女の頬を染め、長いまつげの影が、虚ろに頬に落ちる。赤く照るくちびるは、熟れた果実より甘そうに動いた。 か細い音を立て、煙草がちりちりとオレンジ色に侵食される。全ての行動が、何かの軟体動物ようにいやらしく、滑らかに動く。 口から出る台詞は本気だった。本当にこの女が好きだと思える。誰よりも甘やかしてくれて、包んでくれる。暖かい肉体と細い指先が何よりも落ち着いた。 「メンソール?んなものよく吸えるな」 すぼめた口から煙が出た。辛い匂いだった。 「いいわよ、これ。肺が真っ白になりそう」 イツキは肩をすくめて苦笑する。 「真っ黒、だろ?」 「いいえ。真っ白よ。肺にたまったぐちゃぐちゃな思いが、煙に乗って全て吐き出されるみたい。吸うたびに、きれにになっていくわ」 そしてもう一口。本当に、きれいだった。 メンソールの冷めた匂いが、女を白く際立たせる。 「イツキも煙草、吸えばいいのよ。少しは本気で女を好きになれるわ」 「・・・・・・どういう理屈だよ」 「あら。人を好きになるのにまず理屈がつくわけ?イツキは本能を言葉で全て表現できるの?」 イツキは黙ってそっぽを向く。こうして女を抱くのに、確かに理由はない。意味もないけれどただひたすら落ち着く。この腕の中だけは安堵できる。それを説明しろと言われれば・・・できるけれどしたくない。してしまったら、自分の奥にあるくすぶっている感情に触れてしまうような気がした。 つまりは、彼女のことをあまり思っていない自分も・・・それこそ確かにここにいた。 女は意地の悪い笑みを浮かべて吸い続けた。部屋の熱気と冷たい煙が混じり合い、部屋の中はかすんだ。 「イツキ」 女は煙を口に含む。くちびるは濃厚にイツキの口に触れ、煙が満たされる。 「っ〜〜〜!げほげほげほ!」 二酸化炭素を異様に含む煙に、イツキは涙を浮かべて咳をする。女は肩で笑いながら短くなった煙草をすりつぶした。 「この方が早いでしょ?」 「だからって・・・・・げほ!」 女はゆっくりイツキの背中をさすった。何をしたいのかさっぱりわからない。肺がひたすらに痛くなった。 「ごめんねー」 お詫びとばかりに、もう一度くちびるを合わせる。ニコチンとタールの味がまだ残るくちびるは、メンソールの匂いがした。 それは次第に甘くなる。濃密に。生クリームのようだった。 「これで、お別れ」 「・・・んなことだろーと思った。何がしばらくしたら、だよ。俺の方が振られてんじゃねーか」 「ほら。あんまり残念がらない」 女は少し首を傾けて笑い、下着を着けた。 「俺は表情に出ないだけ。心の中はも〜・・・」 「嘘つき。・・・・・・・ね」 後ろのジッパーを上げ、くるりとイツキに振り返る。 「もし好きな人ができたら言って。見て見たい」 「なんだよそりゃ・・・・・」 「どんな子か気になるじゃない。・・・・そうねー・・・すっごい年上とか。イツキ、年上好きそうだし」 「現にあんたも年上だろ?俺はあんたみたいな女が好み・・・」 「くどいても遅いわよ。もう決めちゃったから」 鏡の前に座り、髪をとかす。櫛が髪を滑るたびに輝いていく。 「イツキっていつも寂しそうな顔してるわね」 鏡越しに視線が交じり合う。 「本当に、子供みたい」 ゆっくりと櫛を置く。ことん、と虚しい音だけが静かに響いた。イツキはベッドでぼんやりと女を眺めた。 ああ、こいつってどんな顔をしてたっけ?どんな肌の感触だっけ?どんな声で名前を呼んでいたか。目の前にいるはずなのに曖昧になっていく。 満たされない思いだけが強く残り、冷たくなっていくベッドの感触だけが現実だ。 女はくすりと笑うと、立ちあがってイツキを眺めた。彼女にあるのはさびしさではなく、憐れみと慈愛。なぜ自分をそんな目で見るのかわからないが、何も言えない。女の口が開くまで、イツキは何も言わない。 「・・・母親に置いていかれた子供ってこんな感じなのかな」 「俺は別に置いてかれたわけじゃ・・・・」 「わかってるわよ。小さい頃に死んじゃって、記憶にない。でしょ?・・・そういうイメージがしたのよ。例え話」 女は背を向けた。完全にお別れなんだな、とイツキは何の感慨もなくしなやかな背中を見続けた。 「イツキのこと、別に嫌いじゃないわよ。でも母親を求められてるようで、ちょっと嫌だった。あなたの甘えって私に対するものじゃないでしょ?体に残ってる母親の肌を探ろうとしてただけ」 「振ったとたん、文句と説教かよ」 「そうじゃないわ。妙な焦燥感を覚えただけ」 「難しい言葉言って逃げるんじゃねえよ」 「逃げてもないわ。わからないのね、自分のことなのに。・・・イツキ」 さよなら。 耳に残る声。きしむ扉の音。かすかに残る、メンソールの匂い。 「辛いな・・・・・」 そして残る、煙草の箱。一本取り出し、くわえる。 辛かった。 ひりつくような胸焼けを覚え、イツキはただ咳き込む。どんなに辛くても、喉の奥は覚えている。 気だるい甘さを。もっと味わいたい、あの甘みを。肌の甘さを思い出したい。 その日だったか。 その日からこの甘い煙草を吸っている。吸う度に、甘い煙を吐き出すこいつを。 イツキは煙草を上に投げた。甘い芳香だけがイツキを優しく包んでくれた。 扉が勝手に開いた。持て余した煙草がぽとりと落ちる。もう、展開は見えていた。冷汗だけが理解している。 「いっきーいいいいい〜〜〜〜!!」 扉を開けてぽかんと数秒後。タイザーは顔を真っ赤に火照らせ、本能的に銃を取り出した。 「また女の人連れ込んで〜〜〜!!」 乾いた音が一発、響く。頬をかすめ、後ろの壁に穴が開く。相変わらず恐ろしいまでに正確なコントロールだ。 「変態!」 「うるへー・・・・・・朝から騒ぎやがって・・・」 くたくたになった煙草をもごもご動かしながら、頭をかく。慣れたとはいえ、恐ろしい。何せタイザーは本気で撃ってくるのだから。もしこれがあたりでもすれば・・・笑ってる余裕も怒る余裕も何もない。それをわかっているのだろうかと彼女をちらりと見るが、それどころじゃなく怒り狂っている。 「ん・・・・・・・」 銃声ですっかり忘れそうになったが、ベッドの中にはもう一人、タイザーが怒る原因が眠っている。女はぼんやりと顔を上げると、真っ暗闇の銃口をとろんと眺め、 「撃つよ!?」 女は目を擦りながらタイザーを見て悲鳴を上げた。 「きゃあああ!な、何なのよ!!!」 一気に目を見開くと、急いで上着を羽織って出て行ってしまった。あまりの素早さにイツキは思わず拍手を送りそうになった。今まで逃げた女の中でも彼女は一、二を争う素早さだ。とはいえ、惜しいことをしてしまった。イツキはまだぬくもりの残ったシーツにずるずると埋もれた。 「あーあ、またかよ」 「いっきー!!起きてよ、変態!」と、プラス銃声。 「変態って名前じゃねえから起きねえ〜」 「子供みたいなこと言わないでよ!変態っ」 「ガキはお前だろ・・・・・・」 しぶしぶ起き上がる。見るとタイザーはまだ頬を真っ赤に染め、銃を構えている。いつになったら慣れるのか、懲りないのか。イツキはやれやれとため息をつくと、火もつけずにずっとくわえたままの煙草を噛んだ。残念ながら味はしない。 「朝食だろ?お前先行ってろ」 「食堂に集合!早くしてよね!」 タイザーはどすどすと床を鳴らしながら大またで部屋から出て行く。タイザーの怒りにイツキは苦笑し、膝を立てて頬をついた。 懐かしい夢を見ていた。あの女を最後に、イツキは特定の女と連れ添うことはやめた。 虚しさを知ったからというのと、一夜限りだけの交流の方が楽だったから。そしてもう一つ。あの女のように、自分すら気付けないでいる部分に触れられてしまうのがどこか恐ろしかったから。深く触れあうことをやめた。 それからは気楽なものだった。別れた女はあまり変わらなかった。話すトーンも、揺れ動く感情も。最初から自分は本気じゃなかったとその時リアルに感じることができた。それはお互いのようで、やはり気楽だった。 そしてしばらくし、女は結婚した。イツキは笑っておめでとうを言った。やはり動くものはなかった。 「・・・・・・・・・」 ぐにゃぐにゃになった煙草を口から離して灰皿に捨てた。甘いはずなのに、口の中は酷く苦かった。苦くてしょうがなかった。 母親に置いてかれた子供のようね。母親を求めているようで嫌だったのよ。 なんて苦い台詞。今になってその苦さが体中に行き渡る。 それはわかっている。わかっているのに、また求めてしまう。個人に対する感情ではないもので、ただ一人の人をつなぎたいと勘違いして、ぐちゃぐちゃに日常を壊してしまった。取り返しのつかない一瞬の甘えと欲望。 何かに満たされたいなんて、何かを強く欲しいなんて。 わかっていつつも実行した自分は行先をなくした。 そして見つけた。ブルーヘブンに出会ってから。何かを取り戻せる気がした。何が欲しいかわかると思った。 自分がもっと強かったら。ブルーヘブンになんて出会わず、今も平和に実家にいたかもしれない。馬鹿みたいに、兄弟で笑い合い、友たちと酒を飲み合っていたかもしれない。 「なんて」 イツキは少し笑う。 「今さら思ってもしょうがねえよな」 どうやってもブルーヘブンを追うしかない。そうでなければ、どこにも行けない。 今日も砂漠の世界は晴天。透明な青い空が世界を包む。 あまりの青さに、イツキは少し咳き込んだ。
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