25・Sweet heaven アイラはいい女だ。グラマーな体が動くたびに、甘い香りが広がる。 溶けてしまいそうなほど、豊満な胸が温かそうに揺れる。 細い腕や、指が、兄貴の腕に絡まる度に。 どうしてか、俺は悔しくなった。 俺はばかだ。 でも誰も俺をののしらなかった。俺にばかを言う相手すら、いない。 年甲斐にもなく、俺は妬んでいた・・・・? 誰に?誰を。 Heaven? 兄貴とアイラシェリは毎日来るようになった。俺のいるバー、そして家にも。ありとあらゆる所に二人は訪れて、歓迎された。 バーはやめたらしい。正確に言うと、もともとアイラは代理だったようだ。いつも歌っている歌手が風邪で倒れたので、代わりに彼女が歌うことになったらしい。結局、不思議なことに彼女の歌声を聞いたのはそのたった一回のみだった。 そのたった一回で。兄貴は。 偶然ってやつか?恐ろしいな。何なのか・・。とにかく、兄貴はアイラにべたべただった。 俺もキシュリーも、うんざりするぐらい当てられて毎日苦笑したよ。あの兄貴がって。あんなに生真面目だった兄貴がってさ。少なくても俺より硬派な兄貴があんな風になるなんてな。 兄貴は元気だった。 ちょっとずつ、仕事の時間をデートに割いて。風邪も引きにくくなったし、倒れることもなくなった。病人だって?嘘だろうとみんなが笑うぐらい、むしろ俺たちよりも元気だった。 なんにしても、よかった。このまま兄貴が元気になるならそれでよかった。 「・・・・本当にそう思ってるのお?」 相変わらず甘ったれた声で姉貴は訊ねる。 「何がだよ」 「・・・兄さんと、アイラちゃんとの仲」 「はあ?」 「羨ましいんじゃないの?」 「どうして俺が?んなこと思うはずねーじゃん。そういうりぃ姉こそ、どうなんだよ」 俺はちょっと動揺した。心の奥底に沈めておいた、針の穴よりも小さい「嫉妬」の欠片を掘り返されたから。 俺はとっさに質問を違うところに持っていく。そんな感情あるはずがない、そう自分に言い聞かせながら。 「なんであたしぃ?確かに、羨ましいけど、ちょっと好みから外れてるから」 「あっそ。・・・ま、兄貴が元気ならそれでいいんじゃね?」 「そうね・・・。でもいつ倒れるかわからないわ」 「どうしてだ?治るんじゃねーのかよ?」 キシュリーはそっと首を横に振った。 「・・・兄さんの・・・いいえ。あんたにはまだ話してなかったわねえ。あたしたちの父さんだけど・・・病気で死んでるのよ」 「知らなかった。なんで言わなかったんだよ」 「だってあんた、今まで聞いたことなかったんだもん。この際言っておくけど、あんただって危ないのよぉ」 「は?」 キシュリーは目を反らした。珍しい反応だった。いつも強気な姉の頬に暗い影が潜んでいた。 「あたし、病気とかそういうの、詳しく知らないんだけど・・・・」 もじもじと腕を組んだりさすったり、指を絡ませたりする。しばらくそれが続き、ようやくキシュリーは口を開いた。 「遺伝的な病気なの」 「は?」 「代々男ばっかりかかってるのよお。父さんも、おじいちゃんもそうだったらしいわあ。・・・通りでおじいちゃんのこと、知らないはずよねえ」 「じゃあ俺も??俺、倒れたことないんだけど」 「兄さんもそうだったわよ。ま、父さんの兄とか弟だってかかってないけどお。・・・まあ、発病率は低いらしいから・・・。特にあんたは丈夫だしね。さ、そろそろ兄さんが帰ってくるころよお。夕飯作るの、たまには手伝いなさい。最近さぼってばっかりだし。元々はあんたの仕事なんだし」 「へーい・・・・」 訳のわからないまま月日は経ち、アキイとアイラシェリは共に住むようになった。 もちろん、イツキは喜んだ。少し寂しいと思いながら。 アキイは久々にイツキの元へ一人で行った。イツキは相変わらずカウンターでシェイカーを振っていた。 「よ」 「兄貴・・・・・・・」 最近、イツキはアキイに会うのが怖かった。二人が住むようになってから、アキイがおかしかったからだ。 「久しぶりだな」 「お・・・・おう・・・」 イツキは目を合わせることのできないまま、無言でビールを出した。動揺する自分がおかしいと思いながら。 「お、すまんな。・・・・でもビールはいい。水で」 「あ、すまねえ」 急いでビールを下げる。アキイは笑っていたが、顔色は青かった。 あんなに元気だったアキイの病気が酷くなった。本人はどうもないと言ってはいるが、明らかにおかしかった。 異様に悪い顔色。やせた頬。筋力の衰えた体。笑顔すら浮かべれないように、うすっぺらくなっていた。何かに吸い取られたように、やつれている。 「今日な、アイラが・・・・・」 否、取り憑かれているのかもしれない。 アキイは狂ったようにアイラシェリについて言う。アイラシェリの生霊に取り付かれたように、脳みそがイカれたように、何度も何度もその名前を呼ぶ。 イツキはそれを黙って聞くしかない。兄の口から、もう兄弟の名前が出てくることはなかった。 「それでな、今日アイラは買い物に出てるんだ。ちょっと離れのところの市場にな、おいしい果物の屋台が来るんだよ。知ってるか?パリウリっつーのがあって・・・・・」 嬉しそうに話しているはずなのに、アキイの体はここにあるのに、中身は違うところにあるようだった。 「兄貴」 「アイラの好物はその実で・・・・・・・」 「兄貴!」 「甘いのが好きなんだよ」 「兄貴ってば」 「ん?ああ。すまない。どうした?」 「・・・・今日、雨が降りそうだったぞ。いいのか?行かせて・・・・」 アキイは中身のない笑顔で「平気さ。雨なんて降らない」と言った。しかし今日の空は暗い。いつもは焼きつくほどの晴天が肌を刺すのだが、黒い雲が垂れこめていた。それなのにアキイはひたすらに笑った。 「そんな滅多なことがなけりゃあ、雨なんて振るはずないだろ?」 「まあ・・・・そうだけど。・・・あ、兄貴」 「ん?」 「俺、もう上がりだし、外の様子見てきてやるよ。兄貴はもうちょっとゆっくりしてな」 「お、そうか?悪いな。じゃあよろしく」 「ああ」 上がりなんて嘘だった。イツキはこれ以上、痛々しい兄の姿を見ていたくなかった。 「イツキ」 その場をさろうとしたイツキに、久々に名前を呼ばれた。急いで振り返ると、兄は真面目な顔をしていた。先ほどまで話していた兄の姿ではなく、いつも見ている生真面目な兄の姿。イツキは一瞬、過去に戻れた気がした。ほんのわずかに胸が暖かくなり、兄に笑顔を向けた。 「どうしたんだよ?んな神妙な顔しちゃって」 「・・・・天国はあると思うか?」 「は?」 アキイはカウンターに肘を付き、ぼーっとグラスの陳列する棚を虚ろに眺めた。 「何でも望みの叶う天国」 「・・・さあな」 「・・・・・天国に、飲み込まれるなよ」 「は?」 アキイはそれ以上口を開かなかった。黙って、眺めるのみ。 「アキ兄。・・・・・俺は、天国なんてないと思う」 「そうか。・・・それで、いい」 「よくわかんねえ兄貴だな。・・・・じゃあ、行ってくる」 イツキは扉を開けた。外はやはり暗かった。今にも泣きそうなほど、雲は街に降りかかる。 アキイは手を振った。イツキは振り返らなかった。 それが二人の兄弟、最後の姿だった。 イツキが外に出ると、雨はとたんに降り始めた。 砂漠が飲み込む世界に雨が降るのは滅多にない。一月に一回、降るのみ。しかも酷い雨だ。 叩きつけるような水玉降り注ぐ中、イツキは闇雲に走る。 どうしてアイラシェリの様子を見ようとしたのか。なんで兄の姿を見ていたくなかったのか。 雨の中走ったところで、何も解決できない。雨はしかりつけてもくれない。 ただ痛いだけ。 「・・・・アイラ」 イツキは肩で呼吸する。体内は爆発しそうなぐらい熱いのに、叩きつける雨のせいで肌が寒い。寒いはずの空の下、アイラシェリは雨の中呆然と立っていた。イツキの声に気づいていないようだったが、数秒の間をおいてゆっくりと振り返った。黒い髪が顔を隠し、一瞬誰かとイツキはどきりとした。 「・・・・・イツキ?」 「アイラ・・・?どうしたんだよ。んなとこ立ち尽くして。さっさとしねえと、風邪引くぞ」 それこそ、アイラシェリにも目を合わせることができなかった。兄以上に。 濡れた髪の毛、張り付く服。裸体よりもいやらしく、卑猥に映る。 アイラシェリの手からぼと、と大きな雨粒が落ちる。それは赤かった。 「アイラ・・・・・?」 髪に隠れた隙間から、赤い口がにいっと歪んだ。 「あの人、最近働かないでしょ?おかげで悪人が増えたわね」 雨水が赤い汁を拭い去る。アイラシェリに外傷はない。 「・・・アイラ、まさか・・・・・・・・・」 「死体なら、雨が拭い去ってくれるわ」 人殺しなんて珍しくない。悪人を殺すのは正当防衛としてなりたっている。それでもアイラシェリがそんなことをするはずがない。細い腕で、ピストルなんて。イツキは嘘だと思った。 「でも、アイラ・・・・お前、そんなことできるのか・・・?」 「当たり前よ。・・・・やらなきゃ、やられる。私はそうやって生きた。これは本能よ」 「?」 「人の望む姿になって、人に交わることが、生きる本能。寂しいと思いながら・・・」 「?何が言いたいんだ」 アイラシェリは声を出して笑う。雨の音が聞こえなくなるほど、彼女の笑い声は絶叫のように際立つ。 「何でもないの。・・・・・ただ、天国を見せてあげただけ。甘え合う天国が」 「天国・・・・?」 「イツキ・・・・・」 残像のように、アイラシェリの黒い髪が揺れる。ぬくもりが、イツキの冷えた体全身を包み込む。嫌というほど甘い香りが脳内をくすぶる。 「あなたも天国が見たいの?」 「だから、何を・・・」 「ふふ・・・私ね、ばかな人って大好き。何でも欲しがる、ばかな人間・・・・・」 「どうした?アイラらしくない・・・・」 「アイラらしい?ふふ・・・私もまだまだなのかしら?」 何が言いたいのか、イツキにはさっぱりわからなかった。それでもアイラシェリはひたすら笑う。イツキの腕の中でくつくつと華奢な肩が揺れた。 「さ、風邪引いちゃうわね。うちの方が近いからいらっしゃい。雨がやむまでいればいいわ」 白い手がイツキを引っ張る。雨音が強く耳を劈いた。進むべき道が見えない。 甘い誘いに俺は狂った。やめときゃよかったのにな。俺はとことん女に弱いから。わかっているけど、自分にも弱いから。 俺は。 俺は兄貴を忘れて無理やりアイラを抱いた。無我夢中だった。ただ甘かった。 アイラの体は驚くほど柔らかくて、甘かった。でも俺は満足できなかった。 結局アイラも・・・他の女たちと一緒だったのだろうか。甘いのに・・・甘いだけ。ただそれだけのもの。俺は満たされない。ちっとも愛しいと思えない。 俺が望んでいたことはなんだったんだろう。昔の女が言っていた。あんたは誰も愛せない。 なのに俺は欲しくて。兄貴が持っていたものも、アイラが持っていたものも。すり抜けて持っていかれてしまう、あの塊を。欲しいから女を抱いて、何となく満たされて。煙草が甘くて、慰めてほしくて。なんだろうな、俺ってやつは。何もかもわからない。でも、本当に欲しかったんだ。 空っぽだ。 雨が、やんだ。 夢でも見ていたかのように、青い空が広がる。 眠りから落ちるように、扉が激しくなった。 「アイラちゃん!!」 姉貴の声だ。珍しくはっきりと声を大きく張り上げている。 「アイラちゃん!兄さんが・・・アキイが!!」 俺は耳を疑った。切迫した姉貴が行った言葉に、愕然とした。このまま砂と一緒に風化してしまいたいとすら思った。なのにアイラは笑った。白い指先が空を向く。 兄貴は死んだ。砂のように、干からびて。 あの時、兄貴が雨にうたれていれば、兄貴は死なずにすんだのか?何もかもわからない。 でも、兄貴はバーで眠るように死んでいたという。 俺は兄の顔を見た。いつもの兄貴の顔だった。俺たちと一緒に笑って、日々を過ごした兄の顔。 なあ。どうしてそんな満足な顔で死んでるんだよ。なんで笑ってるんだよ。 俺、アイラを抱いたのに。兄貴が死にそうなのを忘れて。 兄貴のことなんか欠片も思わずに、俺はアイラを抱いてたのに。 どうして笑ってるんだよ。そんな干からびた姿になって、どうして。笑うんだ。 起きて、俺を叱ってみせろよ。殴ってみろよ。 「かわいそうにね」 アイラは笑いながら言う。涙一つこぼさない。 「でもよかったわ。あの人は天国にいけた」 「・・・っ・・・」 俺は反論もできなかった。俺は俺を責めたかった。なのに責めれない自分の甘さに責めた。アイラ、俺を殴ってくれよ。兄貴、俺を叱ってくれよ。 「望むように、天国にいけた」 優しい笑顔。指は俺を傷つけるどころか、ゆっくり撫でた。 アイラは・・・俺たちが最初に見たアイラシェリはどこにもいない。 俺の目の前に、知らない人がいる。冷たい目で、じっと青い空を見ている。ピストルで盗賊たちを殺したあの姿が戻る。逆再生される光景に俺はめまいを覚えた。 「・・・・何者なんだ・・・・」 くすくす、とおどけた声で笑う。アイラはこんな風に笑わない。 「私はアイラシェリ」 「違うだろ?・・・・あんたはアイラじゃない」 見据える瞳は、万華鏡のように色を形を変える。 アイラが消える。人が消える。 それは人の形をしていない?原型が消える。 俺が見ていたものは何なのか。 目の前に、鳥がいる。 真っ青な鳥。 空に溶けるように。 そして鳥はあざけるように言う。 「望みはなあに?ばかな人」 望み?俺は何を望んでいた?俺は誰に嫉妬していた?何を欲した? 「私はブルーヘブン。全てを天国に連れて行く」 天国?俺は天国に行きたかったのか? 「あなたの望む姿になる。あなたが求める姿となり、あなたと共に歩むでしょう」 ブルーヘブン。望みをかなえる。求める人間に変化する、幻の人。鳥。 「私が欲しい?」 欲しいのは、 「なら追いかけて。追いかけておいで」 ・・・誰? 「私はあなたを招待してあげる。誰よりも甘くて、溶けそうなアイスクリームみたいなあなたを」 儚い女。俺の望むもの?何を言ってるんだ。 「追いかけて・・・・・天国を見せてあげる・・・・」 青く、青く溶ける。 ブルーヘブン。 あいつは空に溶け、俺は一人取り残される。 残されたのは。青い羽と冷たいピストル。あの時、アイラが使っていた重い重いピストル。 グリップを握る。アイラの体の感触が蘇る。なのに、虚しい。 歌が、聞こえた気がした。 ♪It is not cold ice that is buried in the snow. ・・・・・・・The gun that twines around blood will painfully thrust you. 子供みたいだな、俺。 兄貴を取ったアイラに嫉妬し、アイラを取った兄貴を妬んだ。 たったそれだけ。 それだけだ。
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