39・I wish 羽ばたく音が耳から離れない。恋い焦がれるように追った翼なのに。今は恐怖の対象。 「いるんだろう?」 イツキは一人つぶやく。兄の部屋で。何もかも変わらない部屋で。 記憶の中の時間は恐ろしく美しく塗り固められてセピア色に輝くのに、部屋の空気はまるで時から見放されたように動いていない。今にも兄が「よお」とにこやかに手を上げて出てきそうなほど、そこは止まっている。 「出て来いよ」 窓がかすかに揺れて、イツキはそちらに目を映す。 「・・・・・・・あ・・・・・・・・」 イツキの顔がかすかに青ざめる。 「よお」 時が、止まりそうだ。時が逆流しそうだ。飲みこまれそうだ。 「・・・・・・・兄貴」 いや。イツキは頭を振る。 「ブルーヘブン・・・・・・・・」 目まぐるしく変わる姿。 そして鳥は女へと変貌する。 Heaven? 「あなたが呼んだから来たのに」 何で驚いてるの?と女は笑う。形のよいくちびるを嬉しそうに引き上げて、色の白い頬をゆっくり紅潮させる。イツキに出会えたことを心底喜んでいるように見えるが、漆黒の瞳は嘲っているように見える。 イツキは目を反らしながら、かすかに漂う甘い香りに反応する。恐ろしいと感じているのに耐えがたい誘惑にふらりとよろめいてしまいそうだが、ぐっと拳を固めて気持ちを奮い立たせる。 「・・・・やめろよ」 「何を?」 「やめろよ・・・・その姿」 くすくす、と喉から空気が漏れる。ビロードのような長い髪がしっとりと体に沿い、ラインを浮かびあがらせる。妖艶なその姿を直視したらそれこそ倒れるかもしれない、とイツキは内心自嘲した。 「そんなに嫌?私のこと、抱いたのに?」 するりと長い腕がイツキに絡みつく。甘い香りがいつまでも鼻腔をくすぐる。服越しに体温がじんわりと沁み込んで来る。あの日のぬくもりと変わらない。触った瞬間、溶けてしまいそうな絹のような肌も。 「ねえ・・・・・・・ちゃんと見てよ」 彼女はするすると蛇のような腕でイツキの頬をなぞり、優しくくちびるを抑えた。甘い味がお互いの口の中に広がる。絡み合う舌が溶けそうだった。 「・・・・っ・・・」 イツキは彼女の体を押しのけ、もう一度目を反らした。甘い余韻は残っている。このまま体を侵食されてしまいそうで、ぬくもりよりも高揚よりも恐怖に似たうすら寒さが足元から込み上がる。どうしてこんなにも怯えなくてはいけないのだろうか。イツキはどうすることもできず、目を反らしたままくちびるを薄く開いた。 「・・・・・・・やめろよ・・・・。アイラシェリの真似なんかするな」 「真似?」 くすりと、アイラシェリの姿をしたブルーヘブンは笑う。 「真似じゃないわ。私はアイラシェリ。あなたのお兄さんの恋人。そしてあなたが抱いた相手。・・・暖かかったでしょう?私の体」 しなやかな指がイツキに絡まり、アイラシェリの胸へと誘う。 「ちゃんと心臓も動いている。・・・・私はアイラシェリよ」 「違う」 引きちぎるように手をどかし、イツキは恐る恐るアイラシェリを見た。 眠っているアイラシェリと変わらない。あの時と変わらない。 兄と微笑み合っていた時と。抱いた時と。追いかけてといた時と。 何一つ。変わらない。 でも本当は「誰」で「どれ」だったのだろうか。イツキの羨んだアイラシェリは「どっち」だったのか。あの日抱いたあの体は。 今は誰に畏怖して、申し訳ないと謝罪したいのか。 「違う・・・・・」 そう、自分に言い聞かせていないとやはり倒れそうだった。倒れて、そのまま過去に戻ってしまいそうだ。 「あなたの知るアイラシェリは私よ」 「じゃあ眠るアイラシェリは誰だよ」 「・・・・・・あれは単なる抜け殻」 「やっぱり・・・・・・」 微量だが電撃が背中に走った。イツキは全身に力を込める。それで精一杯だった。 「やっぱり・・・・お前は人が望む人間を吸い取り、成り代わろうとするんだな?」 「・・・・・・酷い言い方」 「どうしてそこまでして、他人になろうとする・・・」 アイラシェリの顔が酷く醜く歪み、顔という顔のしわを寄せ集めて泣きそうな顔を作った。美しい顔は妖艶さを保ちながらも醜悪な鬼へと化けた。 「・・・・・あなたなら・・・・あなたたちなら、わかってくれると思ってたのに・・・・孤独なあなたたちなら」 わからない、理解できないと言えない自分がいる。 一緒にいてくれる人。何でもいいから支えてくれる人。 どうでもいいから依存してくれる人。溶け合うように、いてくれる人。 人は人がいなければつぶれそうになる。 一人にされる度に泣く、小さな少女のように。 「・・・・・もし・・・もし、一人で目覚めたらどうする?」 顔のしわが解けた。アイラシェリはふ、と意識をその場から切り離す。 「・・・・・目を覚ますと、そこは一人の世界。でも見渡すと人がいる。みんないる。私は孤独じゃないのね・・・一人じゃないと安心するのもつかの間。・・・・みんな寝てるのよ。起きているのは私だけ。・・・・起こしても起こしても。みんな起きてくれない。・・・みんないるのに、私は一人。いるのに、一人。ただ一人で泣いて、歩くだけ」 イツキはふと、小さい頃を思い出した。目を覚ますと兄も姉もいなくて、一人ぼっち。両親はすでに他界していたのだろか、その姿はどこにもなくて。兄も姉もおそらく仕事に行ってしまって、家にはイツキただ一人。 吐きだしたくなるほど寂しくなって、泣いて二人を探した。幼くてわからなかった、悔しいほどの孤独。 「・・・・・・だから人間が欲しい・・・・・。私と共にいてくれる人」 「・・・・・・どうして今さら、それを俺に言う?」 「あなたが」 そっとアイラシェリはイツキの胸にしなりかかる。 「いえ・・あなたたちの絆が深まっていくほど・・・・お互いのことを思うほど・・・私はあなたたちの心から消えてしまう。お互いの心を、お互いで埋めることができてしまう・・・・孤独の消えた人たちは私を追わなくなるわ・・すると・・私はまた一人・・・・」 アイラシェリの姿をした鳥は細い声を搾り出す。 「現にあなたの中を占めているのは私の姿でも青い鳥でもないわ。ねえ。今、あなたは誰を心配してる?そして・・・その人は誰を求めている?」 果実を含んだような甘い笑い声をあげ、声は唐突に打ち切られる。それに、とアイラシェリの体は浮かびあがった。先ほどとは打って変わり、強い口調になる。 「それにあなたが羨ましかったのよ。強く、求められる者。私を求めるより、はるか強い力」 ブルーヘブンはそっと力を込めた。表情は変わらないが、歯がきりりと金きり音を立てた。 「色々試したわ。・・・・死んだものを求めるもの、愛しい恋人を求めるもの、家族を求めるもの・・・・そして、夢でもいい・・・麻薬でも何でもいい・・・・それらを欲しいがために求めるもの・・・」 麻薬はお前が、と言いかけてイツキはやめた。声がうまくでない。惑わせる笑い声と熱い息に痺れる。 イツキはぐっと目を瞑り、浮遊する手をアイラシェリの細い肩に乗せる。 「もう、終わりにしよう・・・・」 アイラシェリは笑いながらにイツキを抱きしめた。吐息がイツキの体の奥を暖かく湿らせる。 「ねえ、願いは・・・・・・願いは・・・?あなたの持っていた、願いを教えて」 イツキは答えることができず、ただ黙ってアイラシェリの甘い匂いを胸に満たした。甘い匂いはどこか人工的だったが、脳内を狂わせるには支障なかった。ぐるぐると、とろけそうな音を立てて目の前が暗くなっていく。 限界が近い。 「・・・・・そう」 とん、とアイラシェリが離れた。余韻もなく一瞬にして体が冷えた。 「・・・・・・・弱い」 イツキはくらくらする頭を抑えながらブルーヘブンを見る。アイラシェリの顔をした鳥は、ひしゃげるように笑っていた。まるで獲物をつつきながら貪るように、ぎちゅぎちゅと奇怪な音をしていた。 「やっぱり君の願いも弱い・・・私の姿はもうどこにもないのね・・・・」 姿が消える。鳥の姿になる。アイラシェリが消える。 「あなたは私があなたの望む人になっても、酔ってくれないのね。溺れてくれないのね。・・・私のことを知りすぎて、あなたは返って本物を選ぶようになった。そんな弱い人は最後まで一緒にいてくれない。あなたは、アキイとは違うのね・・・・」 鳥は小さく天井を舞う。規則正しい羽ばたく音がやけに機械的だ。 恐怖の対象はあんなにも小さい。手の平に乗せてしまえるほどの小ささ。こんなちっぽけな鳥を選んできたのだろうか。 「・・・・・・ブルーヘブン。俺の、俺の願いは、俺の求めたものは何だ?」 何を求めていたのか、わからない。わからなくなってしまった。 頭の中がぐちゃぐちゃだ。誰か、答えを。 「あなたは私を求めたはずよ」 アイラシェリを、好きだと思った。手に入れたいと渇望したこともあった。あの体をこの腕に入れることができたらどんなに満たされるだろうと思っていた。 同時にそれは、単に兄への嫉妬、兄を奪われる子供のわがままからくるものだった。 じゃあ、一体。 「君の願いはとても弱い」 鳥は姿を変えていく。兄に、アイラシェリに。 見たことのない中年の女性、中年の男性、かと思えばまだまだ小さい幼児。 タイザーと同じぐらいの小さな少女。 万華鏡の中のようにころころと姿を変える。 「私に願うものはない。だからたとえ叶えても、一緒にいてくれない」 すうっと、またアイラシェリに戻る。慈愛に満ちた笑みは暖かく、冷たく、光がない。 「君の欲しいもの」 もう何度合わせたかわからない、甘いくちびる。息ができないほど、長く長く。 イツキに触れる手が、くちびるが、次第に形を変えていく。 イツキではない。ブルーヘブンの求める相手に。 共に歩む相手に。変貌していく。 「僕は羨ましい。強く思われる、人になりたい・・・。だから僕はこの子の願いを叶えてあげたい」 くちびるを離し、無邪気ににっこりと笑う。その姿はもう、鳥でもアイラシェリでもない。今、一番よく知っている姿。 「マルアスも強い願いを持っていた。でも死人だと記憶が戻らないんだ。その人にうまくなれないから、やっぱり捨てられちゃう。それにマルアスの願いもまた弱い。手にしてるものが多いから。孤独ではない。居場所も人も・・・子供たちがたくさんいる」 赤いマントがひらりと舞う。 「薬で僕を追い求めるように仕向けてもみた。薬で得るものは弱いね。求めても壊すだけ。おかげで僕、酷い目にあったんだからね・・・・あはは、なんて」 はねる茶色い髪の毛が軽やかに空を舞う。丸い瞳が喜々と光り、不敵に微笑む。 「だからこの子の」 自らの体を指す。小さな体。まだ華奢で幼い。 「一番強い願いを求めるこの子の願いを叶えてあげるんだ。一番、孤独に飢えたこの子に・・・・いいよね?・・・・いっきー」 だめだ。これ以上あいつから、家族を奪うな。 眠らせるな、求める者を。壊すな。 孤独を埋めるために、奪わないでくれ・・・・。 ねえ。 それが君の願い?君はそれを願うの? だとしたら、大丈夫。だってあの子の願いは・・・・。 「イツキ〜ごはんよ〜」 パチンと目の前が白く弾けた。無理やり夢から引きずり落とされたように、イツキは今「床に立っている」と妙にしっかりした重さを感じた。ずっしりと床に食い込む感覚が酷く懐かしく思えた。 顔を上げる。そこには誰もいない。青い羽も、余韻も。甘い香りもなかった。 夢、だったのだ。長い長い白昼夢。 「イツキ、早くおりてきなさあーい」 「あ・・・・・・ああ・・・・・・・・」 青い空に浮かぶ青い鳥。 笑いながら歌ってる。馬鹿にしながら歌ってる。 追いかけて欲しくて。誰よりも恋しくて。 そして言う。 「願いは何?」 「僕の、欲しいものは。僕の、願いは」 さあ、叶えましょう。あなたの願う人を食らい、「私」は望む人となる。 「僕は、いっきーといたい」 人の想いが、人を食らう。
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