シロは猫だ。とても気まぐれで、散歩が好きで、海を眺めるのも、風力タービンを見るのも大好きだ。優しい風が運ぶ匂いも、それだけでとても胸を満たした。
今日も塀の上に恐る恐る上ると、両手を広げ、白い雲の上を走るように駆け抜ける。何も生み出さない海は白い光を受け、細かな漣を刻み、水面はいくつもの光の筋が浮かんでいた。シロの瞳も白く輝き、時折七色に瞬いた。永遠の宝石を思わせる淡く美しい虹彩だ。
上から見る景色は、街は近くにあるというのに遠い。全て手のひらに乗ってしまうほどに小さい。シロは両手を広げると白い街を包み込んだ。その中には出会った人々が優しくくるまれている。友人、エイプリルの姿も見える。妹、メイの姿も。
レースのすかし模様が入ったテーブル席に座り、アザレ、グロゼーユ、ヴェルミヨンの姿も見える。彼らは楽しく談笑し、他愛もない話題で盛り上がっている。アザレの欲求が強すぎることについてグロゼーユが顔をしかめたが、ヴェルミヨンが最も己の欲求に忠実で強いため、彼は瑣末な存在扱いされていた。
「要するに、下品で節操がないんだよアザレは。今に追い出されるよ」
「だってさ、不要だって言うから。完全破棄になる前に手に入れようと思ったんだよ。けど、結局はたくましく生きているし、目は手に入らなかった。節操があろうとなかろうと結果は残念すぎて不満で倒れそうだ」
「そう言うが、一回抉っただろう。治すのに苦労した」
「おや。可哀想に」
おかげで誕生したんだ、とはアザレは言わなかった。エイプリルへの罪によりイマジナリーフレンドの存在を知った彼は、マリアも同様、メイを生み出すこととなった。それが恐ろしいことだとは思うが、不幸ではないと断言できた。それを幸せに思うかどうかは本人次第だ。エイプリルは心の底から幸せに思っているが、彼女は?シロはまだ知らない。ただ、幸せを願う。この街で生きていけるようにと。三人を横目に、塀の上を駆け抜ける。白い風が白い髪をさらう。
ふおん、ふおんと風が揺れ、三つの影がゆったりと回る。ぐるり、ぐるり、永遠の風。
手のひらに弾丸を乗せる。鉛色のそれはシロの心に訴え続ける。忘れない、忘れない、と懐かしい声と共に。
忘れない。誰が、誰に対して。それはクロに対してでもあるしシロに対してでもあった。この街の人なら全てに共通する言葉だった。何かが欠けている人々は零れ落ちたひとかけらを忘れてはいけない。
風力タービンを見上げる。三枚の羽がふおん、ふおんと周り続ける。染み一つない真っ白な羽をシロは目で追い続ける。影が何度も何度も体をかすめ、シロを刻む。
忘れない。例え、クロもまた犯罪者だったとしても。本当はシロを深く憎む者だとしても。シロのせいで全てを奪われ、生きていかれなくなったとしても。それでもシロはクロを飼い主のように、あるいは父親のように慕う。慕いたいから、猫である道を選んだ。
シロは弾丸を握り締めると海に捨てた。深い深い海の底へと。シロは猫だ。猫は語ることはできない。全てを知っていたとしても。猫である限り、永遠の幸せを約束されている。
「シロ」
ゆっくりと振り返る。シロはクロを見下ろすと、その胸に飛び込んだ。クロの胸は陽だまりの匂いがした。
――忘れないよ。あなたのことは、私がずっと覚えている。だから、さようなら。
風に乗せて、声が聞こえた。
白い街は今日も穏やかだ。風だけが動いている。
欠落パラダイム 完
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