| マルファに探りを入れろと言われ、数日経つ。その数日が、エリエステスには数週間に感じた。 言われた日より、あの瞬間から、エリエステスははるか昔――随分と遠くなってしまった学生時代の時よりも強く、マルファについて考えることが多くなった。もちろん親友レイシーに対してもだ。 エリエステスは自らの生まれが不遇だったため、笑う生活はあまりなかった。だが軍人になると決め、ようやく行くようになった学園は華々しいものであった。 友人たちと共に笑うようになったのはいつの日だろうか、と遡るより先に鮮やかな光景が蘇り、眼前に広がる。 剣を交え、勉学に励み、国や世界について語った日々――は、もう過ぎた。 友人たちとは道が違う。道を示してくれた女王もいない。 ――私はどこへ行く?何を望む。 揺れる馬車の中で何度も自問を繰り返す。しかし返ってくるのは、洞窟から吹き上がるような低い低い嗚咽ばかりで言葉らしきものはない。泣いているわけではない。嘆いてもいない。表情は硬い。 ――女王は蘇る。色彩の世界は保たれる。私を導く存在は蘇る。そうしたら、以前のような世界が戻る。 エリエステスは繰り返す。自分の想いが自らを食っていることも知らずに。砕いては頬を撫でて引く波のような苦痛が繰り返しても、エリエステスはつぶやく。蘇る世界について。 いつの間にか閉じていた瞼を開く。薄暗い世界の色は浅い。モノクロの中に放り込まれたようだ。馬車を止めると、エリエステスは独り立った。次第に消えていく馬の足音を送りながら、両手を固めた。 「すまない、レイシー」 ――もしもお前が世界に背くなら。私はお前を斬るだろう。 「だから、せめて。何も言わないでくれ……」 ――ゼファーナ様。色彩の女王。そして私は、貴女を守る。 ダークオレンジ 9 扉が、軋んだ。何年も人が通ってないように、扉は重苦しく開いていく。それはしゃがれた老人の姿を彷彿とさせ、一瞬だけ深い悲しみに突き落とす。そして荒々しく閉まった。 大きい音だったが、誰も反応しなかった。みな無気力に灰色の煙を吐き出し、薄まったアルコールを摂取する。すえた匂いだけが大きな空気の流れを作った。 この世の全ての汚物を吸い込んだような掃き溜めのバーに入ってきた女は、異質だったがどこか馴染んでいた。それは自嘲気味に笑っている表情のせいかもしれない。 流れる髪、大きな肩に引き締まったウエスト、こぼれる足にはどんな場所も踏み越えれる強い筋肉がついていた。普通なら口笛の一つが聞こえてもよいのだが、誰も見ることはなかった。ただ一人を除いて。 「こっちだよ」 暗く沈む部屋の奥から白い手が浮かんだ。女は男の存在を確認すると足音のなく近づき、隣に座った。凛とした姿に男は軽く笑い、ブランデーを頼んだ。 女も異質だったが、男も異質だった。作り物のように光る束ねた灰色の髪、冷たい瞳。汚れてはいないが随分とラフな服を着ているが似合っていない。女はしばし見つめたいたが、瞼を閉じると前を向いた。 しばらくしてブランデーが届いた。それを合図に、二人の瞳は交わる。 「いいね、その恰好。よく似合うよ、エース」 「お世辞をありがとう。いつもの恰好だと私が軍人だとわかってしまうからな……仕方なかったんだ」 心にもない声に男――レイシーは苦笑いを浮かべた。いつもの冷たい笑みとはまた違う、穏やかな色が見えたがエリエステスは頑なだ。目線をブランデーに落とすと、少し舐めた。だがレイシーはエリエステスを見つめ続ける。 一目見ただけではエリエステスとは、ラスティカの軍事だとは気付かない。肩に触れるほどの髪は今は長く、腰近くまで伸びている。軍服もなく、装飾はないが光沢のある赤いドレス。それに加え、黒いショールを肩にかけていた。まるで貴族の女だが、エリエステスは貴族出身のためか、浮くどころかよく似合っていた。 対するレイシーは飾り気は一つもない。シャツにジーンズといった、誰もが来ている服だ。髪も束ねる程度なので、誰が彼をマルファのトップと思おうか――しかし不自然な風はあった。それを気にする人が集まる所ではないため、二人はこうしてここで出会う。――マルファとラスティカを天秤にかけて。今はまだ二人に仮面はない。ただのエリエステスとレイシーがいた。 「その服はどこから?」 「私物ではない。姉上から借りたんだ。お前と会うために」 「それは嬉しい。二重に嬉しいよ」 「……お前は妙な言い方をするようになったな」 昔は、と続けそうになり、ふと止める。それ以上は言わず、話題は違う方向へと流れた。 「そういうレイシーは似合わないな。喜劇役者のようだ」 「酷いなあ。昔着てたやつなんだけど」 そういえば、昔はラフな服しか着てなかったなとエリエステスは過去の映像を映し出す。記憶の中にいるレイシーは今とは随分と違って見えた。それは自分もかもしれない、と付け加えた。 「それにしても、突然で驚いたよ」 「急ぎの用だったんだ。忙しいのに、呼び出して悪かった」 「いや、大丈夫だよ。その分、リーレンが大変だろうけど」 「困った大将だな」 エリエステスは苦笑し、レイシーもつられて笑う。だが二人の顔はすぐに引き締まる。 「内容は何となくわかる。けど、こんな所で話して大丈夫かい?」 「こんな所だからいいんだ。誰もいるようでいないし、聞いているようで聞いていない。人が人ではないような、ブラックテューマーがね……。気楽でいい」 「矛盾してるね、優しいエース。君は案外軍人に向かなかったかもな。民を想いながら排除する。どれだけの葛藤があったのやら」 言いながらブランデーを舐めた。口調はおどけていたが、顔は酷く暗い。この場が薄暗いからだろう。エリエステスは前髪を邪魔そうにかきあげながら、グラスを掲げた。とろりと濃い液体が揺れ、ただ眺める。 「私は女王のためにやっているだけだ。葛藤はない」 レイシーの瞳が強く瞬いた。怒りと悲しみが入り混じり、ブランデーも相まって熱く潤んでいる。笑みは変わらない。だというのに彼の持つ冷たい雰囲気は強まった。 「君はいつだって女王だけを見ている。……女王はもう死んだ」 「しかし息づいている。この世界に」 エリエステスは怯まない。一字一句を大切に言うと、グラスを置いた。レイシーはしばらくエリエステスを見つめていたが、グラスに目線を落とした。 「レイシー。そろそろ本題に入ろうか」 「シャワルの事、だね」 「そうだ。ディアンダからふざけた手紙がきた。女王の座を狙っているらしい。そのためには戦も起こす勢いだ」 「なるほどね……。さすがは熱い国、シャワルだ」 「笑い事ではない。女王に刃向かうなんてどうかしてる。あの国は先代からそうだ。女王を否定したがる」 エリエステスは深刻に言ったつもりだが、レイシーは笑っている。頭に杖をつきながら斜に見上げ、目を細めた。 「女王の言いなりになるのが嫌なんだろう?」 「言いなりなんて……誤解だ」 エリエステスは弾かれたようにレイシーを見たが、彼は笑っているようで……冷たく、表情を凍らせていた。あまりの冷たさに、見ているだけで凍えそうになる。それでもエリエステスは彼から目線をはずさなかった。 「この世界は女王なくしては成立できない。全ての色彩は女王が紡いでいる。そのことを知りつつ反発するのは……愚かなことだ」 「そうかな」 同意すると思っていたレイシーの目が強く光った。冷たさは増すばかりで、エリエステスは動けなかった。 「この世は女王の言いなりだ。女王が我々の命すら握っている。そう思うと怖くもあり、反発する気も起きるよ。平和な世界だって……国がなければ成り立たない。私たちががんばらなければ成り立たない」 「それは……そうだ。でも表現が大げさだ。私たちの命は自分のもの。決して女王が握っているわけではない。それに平和だって……女王という基盤があるからこそ」 「女王がいなくとも今、世界は動いているじゃないか」 「そうだが……違う。シャワルを見てみろ。先代が女王に反発したため、今では貧困状態にある。私たちの友人であるエルーダ・ヴェインだって、家を無くしたと聞いている。軍人になりたくとも、金どころか生活もできないから……と」 「女王を崇めなければ、シャワルのようになる?高慢なことだよ」 エリエステスは息を飲む。水っぽくなった黄金の水がレイシーの目に映った。ゆらりゆらりと消え、心はどこかへ分離しそうだ。 エリエステスはかぶりを振る。何に対しての否定かわからなかったが、今はそうすることでしかレイシーを制することができなかった。 「お前はシャワルに賛同しているのか……?ラスティカと条約を結ぶマルファのトップが」 「国としてはラスティカと対立したくないからね。賛同はしてないさ」 「じゃあ、なんだ。どうしてそんなことを言う」 「悲しい顔をしないでくれよ、エース。ただね……私は賛同している。いや、シャワルに賛同というのも違うな。……女王を否定したい、かな」 二人の視線は交わらない。レイシーもエリエステスもお互いの背後を見ていた。そこに答えがあると言いたげに。 最初に視線をそらしたのはレイシーだった。冷たい瞳は穏やかに揺れ、口元は笑みを作った。 「マルファは話し合いに出るよ。そこで詳しく聞いて、出方を考える。マルファとラスティカの話はそれからにしよう。今は……今、この時間は君の話を、君の意見をもっと聞きたい。女王について……もっと別のことについて。時間はあるんだろう?」 エリエステスは呼吸をするように瞼を一度閉じ、開けた。眼前には変わらぬ、暗い壁がある。 「ああ。十分すぎるほどある」 レイシーは適当に代金を机に置くと、立ち上がった。エリエステスも同じように立ち上がり、代金を置こうとして制された。 「ここは私が持とう」 「これくらい払える」 「いいや。いくらなんでも女性に払わせるのは気が引ける」 「お前は本当に……変わったな」 エリエステスは苦い笑みを浮かべ、手を戻した。レイシーは満足そうにエリエステスを見つめながら「さあ行こうか」と促す。 「どこに行くんだ?あてはあるのか」 「あるよ。というより、通りがかりに見つけた。もっと暗く……誰も来れないような」 雑音が耳に響き、砂嵐が一瞬視界をなくす。その隙間からレイシーの冷たい気配がちらちらとこぼれるが姿がかすんでよく見えない。近くにいつつも遠い、となぜかエリエステスは感じた。旧友の姿がおぼろげだ。 「みんな……変わっていくんだな」 エリエステスのつぶやきは暗い影に消えた。顔をあげ、レイシーの背を見る。女にしては大きいエリエステスだが、彼はさらに大きい。針金のような線を持ちながらも、重圧を感じる。冷たさも熱もそこに同居している。 ――レイシー。シャワルに賛同しないでくれ。女王を否定しないでくれ。そうしたら……友人を失わなくて済む。 祈るような想いだけが酔った頭を駆ける。彼は果たして気づいてくれるだろうか。 ――私は女王を裏切れない。私はすでに狂っているのだから。 |