一瞬、耳がバカになった。金きり声を上げる剣が鳥のように空を舞いあがり、ふおん、と風を含んで急降下。なんて軽い音で落ちるんだ。その音は俺をバカにしているように聞こえ、思わず悪の根源を睨みつける。

 目の前に線が走った。きれいな一本線だ。銀色の細い糸。俺がそれを剣先だと気づいたのは、無様に尻もちをついた後のことだった。

 多分間抜けな顔をしていたと思う。擬音をつけるなら「ぽかん」とか「ぼけー」とか。とにかく、地面に落ちた剣よりもバカな姿。俺はそんな自分に苛立ち、目の前の人物に苛立った。

「勝負あり!」

 赤い旗が上がる。相手の色だ。俺の色じゃない。

「勝者、」

 審判員役を務める講師が高らかと声を上げる。言うのは、俺の名前じゃない。俺を倒した、女の名前。

「エリエステス!」

 まばらな拍手と食い入るような生徒の視線と太陽を背に、彼女は満足そうに微笑んだ。まるで全てのものが、自然界に転がるものが、色彩の女王が生み出す世界が味方だと言わんばかりに。

 その姿は生涯忘れることはないだろう。不覚にも神々しいと思ってしまった、凛とした立ち姿を。

「いい勝負だった」

 彼女は何の悪意もなく、まして俺の苛立ちに気付くはずがなく、歯を見せて爽やかに笑った。そのまましゃがむと手を差し伸べた。その手はまだ華奢だったが手のひらには肉刺がたくさんできていた。

 俺はむっそりと怒ったまま受け取る。――そう、忘れない。差し伸べた手の熱さも、白い歯を見せて無邪気に笑う姿も。彼女と出会い、弾けるように心が目覚めたその瞬間を忘れないだろう……。



           グリーンメモリーズ 1



 世界は平穏でぬるま湯のようだ。全土を覆う生ぬるい毛布の膜は人々にぬくもりを与えると同時に思考を緩慢とさせる。長い間湯に使っていると手足がふやけてしまうように、大半の人間は……平和そのものだろう。「戦」の字を知らぬ者も多い。

 しかしなぜか世界は何かから防衛しようとする。一体何から?誰も答えが出ないまま、今はただ純粋に力を求めてその道に進む者も少なくはない。色彩の世界の平和を守るべく、立ち上がる若者がいた。

 国の中心であるラスティカには軍人養成所、訓練学校がある。通常の学校と比べると殺伐とした生臭い香りがあちこちから漂うが、それでも休み時間、廊下にたむろする生徒たちは朗らかに笑い、日光をさんさんと浴びて笑い合う。対立などという言葉はない。いがみ合うことも。訓練以外はやはり色彩の世界、平和であった。

 そんな暖かい日差しの中、レイシーは大股で廊下を突き進んでいた。ずっと愛用しているぼろぼろのブーツは苦しそうに廊下をかつかつと響かせ、生徒たちの目線を集中させる。その目には羨望と畏怖が交じり合っていた。それもそのはず、レイシーは剣術の試験を見事首席で通り、入学したからだ。鮮やかな剣さばきはその場にいなかった人でも噂で聞くほどだった。しかも学園は年齢を15歳から20歳まで、いつでも入学可としている。15歳で入学を希望する者は少なく、年長の者が多かったわけだが、年上の彼らをもレイシーは倒してトップとなったのだ。噂にならないほうがおかしい。その上、退屈な入学式は彼の初々しい声で飾られ、大いに盛り上がった。レイシーはそうした注目を浴びるのを好まなかったが、悪い気分でもなかった。

 とにかく強くなりたい。レイシーには志がある。言った瞬間、逆族として捕えかねない夢。それを形にするには力がどうしても欲しかった。

「レイシー」

 名を呼ばれ、足が止まった。かつん、とより一層大きい音が廊下中に響き渡り、辺りはしんと静まり返る。生徒たちは一瞬肩を震わせたが、それぞれの元の表情と目線の位置にそくささと戻した。レイシーはそれに気付きつつ、目の前に現れた友人をむっつりと見た。

「……エルーダ」
「どうしたんだ。何かあったのか?」
「いや……別に」

 レイシーは努めて平静を装ったが、口の端が引きつっているのがわかった。それほどにまで苛立ちが隠せないのだ。同期であり、友人であるエルーダ・ヴェインは理由がわからずただ不思議そうに眺めるだけだった。

 レイシーは見るからに冷たそうな切れ長の金に見える茶色の瞳、細長い灰色の髪を持ち、さらには触ると凍りついてしまいそうな青白い皮膚を持っている。それに対し、エルーダは健康そうな褐色の肌にレンガに似た赤茶色のパサついた短髪だ。目も黒目がちで人懐っこそうに見え、事実彼は誰にでもフランクで快活な青年だ。そんな陰陽の二人が並んでいるのを、ただでさえレイシーは注目を浴びているというのに、さらに目線は集まってくる。しかし二人は対極でも友人同士なので彼らにとっては普通であった。

 レイシーはそんな好奇の目線を振り払うように、再び歩き始めた。

「あ、おいってば」
「ここは人が多すぎる」
「わかった。じゃあ屋上にでも行くか?男二人で行くっていうのは、中々しょっぱいが」
「……そうだな」
「よし」

 エルーダは顔中が口になりそうなほど大口の笑顔を浮かべ、レイシーの背中を軽く叩いた。そんな彼の無邪気さに、レイシーは幾分か気持ちを和らいだ。

 レイシーは別に怒っているわけではなかった。ただ、腑に落ちないことがこれから起こるので軽く苛立っているだけだ。所詮妄想に過ぎないことかもしれないが、どう考えてもどう巡らせても、結果はやはり腹立たしいものになる。

「ようは、怒れるんだな」

 途中で買ったコーヒーをちびりと一口含むと、エルーダは自分の発言に納得したように軽く頷いた。

「違う。腑に落ちないだけだ」

 レイシーは少し離れたところで金網を握り、運動場で訓練する学生たちを睨みながらぼやいた。心地よい冷たさが指に伝わったが、心の底にある怒りは冷めない。

 エルーダは肩をすくめると、カップを下に置いてレイシーに向いた。

「そんなに怒れることか?貴族が入ってくることに。別に不思議なことじゃない。結構ある話じゃないか」

 明日、貴族の人間がこの学校に入ると、レイシーを指導している講師がぽつりと漏らした。明日起こることなのでばらしてもいいのだろう。講師は無意識のうちに話してしまった事にはっとしてはいたが、すぐにぺらぺらと話し始めた。

 世界に一応階級らしきものはある。平民の中で多少の格差、そして貴族たち。貴族とはいえ、国に対する発言権は全くない。ただ、その一体の地域をなだめるのと犯罪を国へ告知する。子供が「いじめられている」と教師に言いつける程度のものだが。それでも金は支給され、彼らは高価なものを買い、国に金を返す。そういった循環も必要だ。

 それら以外、貴族と平民に差はない。大して偉そうにする人もそういない。なので貴族とはいえ、人々の心に差別はほとんど生まれなかった。――色彩の世に格差などそうそうないのだ。

 そのことはレイシーもわかっているし知っている。学校の中でも数人貴族がいる。彼らは同じように訓練し、戦っている。差別はない。しかし彼の怒りは違うところでたぎっていた。レイシーは金網に背を預けると、握りしめるように腕を組んだ。

「それだけじゃない。貴族も貴族、フィルデフィラ家の次女らしい」
「あのフィルデフィラ家?名門中の名門だな。女王の補佐を代々努めているっていう……ん?次女?」

 言葉を区切り、エルーダも腕を組んで首をかしげた。

「フィルデフィラ家に二人目なんていたっけ?それも……次女って……ことは」

 貴族というのはおかしい法律を持っていた。男は城勤めをし、女は貴族同士の繋がりを深めるために貴族の家に嫁いでいく。そこまでは普通だが、次からが違う。

 それ以上の地位を求めてはいけない。城に勤めるだけでよしとし、一つの貴族のところで繋ができればそれでおわり。現在の地位よりも上を目指してはいけないのだ。おそらく、貴族が女王よりも力をつけることを恐れてのことだろう。明確な理由を庶民は知らないが、貴族という人間がいつの間にかいたように、法律もいつの間にかできていた。

 そうすると、貴族は産んでいい人数は二人。それも男女で。男兄弟だけなら二人とも城へ、女姉妹だけなら一人は嫁に送り出しもう一人は婿を呼べばいい。

 では、三人目はどうするのか?

 メイドのように家の仕事をさせるか、生まれる前に流してしまう。もしくは、平民へ養子に出してしまうこともある。どれも噂でしかなかったが、どの貴族も子供は二人しかいないのは事実だ。

 レイシーは困ったように眉間にしわを寄せながら「変な話だろ?」と肩をすくめてみせた。

「確かフィルデフィラって……男の軍人で一人いたよなあ?あと……すっごい美女がいるって噂を聞いたけど……でもそれは長女で……まさかその人じゃあ……いやいや、軍人になるんだろ……んん??」

 エルーダはしきりに首を傾け、頭の上に構図を必死に浮かばせる。それをレイシーがばっさり斬る。

「ようは、三人目だろ。名前は聞いてないから、その美女かもしれないけど」
「もしかして、それに怒ってるのか?」
「そうだ。だって、許せないと思わないか?貴族の、それも女が入るなんて。試験は裏口こっそりだろうよ」
「あっきれた。すっごい偏見だな。貴族なんて俺たちと変わらないだろ……。それに女の訓練生はいるじゃないか」
「あれは女と呼べない」
「……確かに」

 エルーダは苦笑し、まずいものを食べた後のように顎を撫でて軽く笑った。学校の中にはもちろん、女も多少在籍している。とはいえ彼女たちは男のように逞しく、女としての原型を持たないものが多い。いたと思ったら保険医だということがしばし。

「まあ、そんなに苛立つなって。明日になれば全てわかる。今からそんなに怒ってもしょうがないだろ」
「それもそうだが……」
「なんだったら、明日の授業で手合わせしてみろよ。新入生貴族が受ける初めての授業をお前が指導してやるっていうのもいい話じゃないか?」
「思い知れってことか。悪くないな」

 エルーダは「だろ?」とカップをひょいと持ち上げながら立ち上がった。いつ飲んだのかわからないが、カップの中身は飲み干されていた。レイシーは先ほどよりも幾分か機嫌が落ち着き「とりあえず、明日だな」と少しだけ笑って見せた。

「そうそう、そうしろって。お前の剣でけっちょんけっちょんに泣かせてやれよ。じゃあ、明日な。色々と期待してよーぜ」
「ああ」

 エルーダは軽く手を振ると、屋上を出ていった。いつの間にか風は冷たいものに変わり、太陽はどろりと濃い橙にゆがんでいた。レイシーは強く太陽を見据えると、腕を解いてしっかりと床を踏みしめた。

 気持ちと共にピン、と直立する体は明日に備えて力を循環させる。それほど意思は重く、固かったが――彼は明日の今頃、違う意味で怒りを抱くこととなる。




 最初の印象は儚く。まだ出来上がっていない細身の体からは、自らを引きちぎろうとする想いが溢れ出している。剣を構え、隆起する肩の筋肉は艶やかに火照り、口元はなぜか笑っていた。それは喜びではない。獲物を狩る獣の構え。だが、乾いた紫紺の瞳は敵ではなく、自分自身を見つめていた。

 彼女を満たす想いは、一体何なのだろう。風が運ぶ匂いは、甘くも辛くもない。

 なんて強く、険しい獣だろうか。対峙しただけでわかる、深紅の炎。

 それがレイシーが見た、最初のエリエステスの姿だった。


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