もしあのことがなければ、私は生きてはいない。死に向かう生は捨てられ、生きているか死んでいるかもわからない日々を送っていただろう。

 否・・・あのことがあったからこそ、そう思うのだ。

 すべてはあの時、あの場所で。

 まだ視線の定まらぬ、雑草と同じ目線しか持たない頃。真っ白な城で出会った、高貴な姿。私なんぞが触れていい人ではない、世界の要。

 色彩の女王・ゼファーナ様。

 世界の色彩を紡ぎ、人々を導く尊い存在。

 その姿はどんな色彩よりも豊かにきらめいていた。木漏れ日の中、ゆっくりと私に、母親の姿よりも優しく麗しく猛々しく微笑む。なんて美しい棘を持っているのだろう。バラよ、お前の棘は偽物だ・・ここに本物がいる。狂気を兼ね備えた美しい人が、ここにいる。

「汚らわしい」

 幼い私を罵るくちびるの何と輝かしい。宝石のような透明さ、造形美。
 真っすぐ伸びた腕の先に、私を斬った剣がくちびるよりも赤く煌々と日に照らされている。
 私は痛みよりも、女王を汚してしまったと跪きたかった。最も、すでに倒れていたが

「・・・・お前は、これで存在を失った。女として生きることはできない。男としても生まれれぬ。・・・哀れな娘だ」

 女王が、私だけを見ている。私のために言葉を吐いている。世にも汚いものを見るように、蔑みながら。

「だから私がお前に存在を与えよう。どこにも行けぬ、哀れな娘。私の元へおいで。私の傍に、来なさい」

 威圧する声に私がどれだけ歓喜したか。

 貴族として生まれたが、男として城にも行けぬ、女として嫁ぐこともできぬ。それ以上は女王の定めた法により、得たものは莫大な税金となって外に出ていってしまう。

 私は、いらない存在だった。生まれてからすぐに殺される予定だったのを、母が止めた。なんて恐ろしいことをしてくれたのだ、私は生まれたくなかったのに・・・。

 でも今日、私は生まれた。もう一度、女王の手によって生まれた!

「エリエステス・ランファル・フィルデフィラ。上がっておいで。私のところまで。それまで待っていよう、お前の存在を」

 痛みが恍惚と変わる。この痛みこそ、女王が私に存在を与えてくれた証。

「今日から、私のために生きろ。そして強くなれ。来るべき日のために」

 女王が微笑む。美しい、美しいと言葉にしても陳腐になっていく。ああ、あの方をどういう言葉で表現したらいいだろう。それが言えたら、どんなに幸福か。

「そして私の「エース」になりなさい。待っているわ。私の軍人」

 ありがとうございます、女王。

 ああ、色彩の女王に栄光あれ・・・・。



         グリーンメモリーズ 4



 カーテンが翻った。暖かく香ばしい香りが外から入ってくる。エリエステスはしばらく柔らかい日差しに目を細め、遠くを見つめていた。しかしふと、思い出したように戻ってきてレイシーを見つめた。答えを求めているのだ。強い視線が、訴える。

「俺は・・・・・」

 カップを下に置くと、体をベッドから落とした。なるべく、彼女と同じ視線でいたかった。しかしせまい部屋に大柄の二人が入るのは少し苦しい。エリエステスはそっと壁際によけ、彼の席を開けた。

 レイシーは手を組むと、少しうつむいた。エリエステスもやはり女なのだ。以外に小さな足が目に入る。男の指とは違い、きれいに丸く整っていた。

 感情がばらばらになりそうなのを押さえ、レイシーは口を開いた。志すもは―

「俺は・・・・俺は、世界を維持したい」

 誰にも言ったことのない夢だった。この箱庭のような世界を、自分たちの手で維持したい。女王の力だけではない、女王が紡いだ色彩だけでなく、自分の力もそこに加えたいと願っていた。そうすることで、少しはこの世界も人間臭い匂いをはなつようになるだろうか。それ以上のことは考えなかったが、とにかくレイシーは世界を望んでいた。

 夢物語だということはわかっている。世界は女王以上を望んでいない。

 レイシーは恐る恐る顔を上げた。

 エリエステスは笑っていた。全てを包み込む、大らかな表情をしていた。
 レイシーはあっけにとられ、ぽかんと彼女を見つめた。

「バカにされるかと思った」
「まさか」

 エリエステスはさも当然と言わんばかりに鼻で笑う。

「バカになんてしないさ。・・・ただ、私と似てると思っただけだ」
「似てる?じゃあエースは何を?」
「私は・・・私も世界を維持したい。今はこれしか言えないが、必ず私は維持する」

 レイシーは後になって思う。この時は自分と同じく、たくましい思いを馳せて世界を維持する・・そのままの言葉だと思っていた。しかし実際は違った。

 彼女の言葉の裏には「女王のために」という、すでに心の中に存在している人物がいた。

 女王のために世界を守り、女王のために傍に行く。

 まるで決められた運命のように、彼女は狂っていた。

 エリエステスは自嘲気味に笑い、そして再びあの慈愛の瞳に戻った。

「私は女王に会ったことがある」
「え・・・・?」
「幼いころに。・・・・斬られたよ。不法侵入だった・・・いや、たまたま迷い込んでしまっただけだった。でも、女王は私を斬捨てた。潔いな」
「じょ、冗談だろ?それに・・・・」

 斬られたのに、なぜそんなにも微笑んでいられるのか。痛みすら、快楽に例えている。

「嬉しかったんだ。・・・お前も知ってるだろう?私はフィルデフィラ家にとって不要な存在だと。私自身もそれについて理解していたし、悲しかった。・・・でも女王は私に立場をくれた」

 エリエステスは傷に触れる。痛みはもうないはずなのに、触れた途端血があふれて見えたのはレイシーの錯覚だろうか。光景が浮かぶ。女王に切り捨てられる小さな体。そして、微笑む。女王に、あの紫紺の瞳を向けて喜ぶ。

 レイシーは知らない間に歯を食いしばっていた。怒りとは違う、別の感情だ。

「私に傷がついたことによって、私は女として働かなくて済んだ。両親も私を家に置いておきたくなかったのだろう・・・学校に行くといったら、喜んで入れてくれたよ」

 何かが違う。かみ合わない歯車がどこかにある。でもレイシーは見つけれない。彼女の違和感を、指摘できない。

「必ず軍人となり、女王の傍に行く」

 確固たる意志の向こうは、狂気だ。

 斬られて、存在を一旦失い、女王の飼い犬として生まれ、そしてこうして一緒にいる。

 悲劇だ。

 何という、滑稽で悲しい劇。

 レイシーはたまらず、エリエステスの手を取った。あまりに素早い行動だったので、エリエステスは驚いて目を見開いた。もう瞳は潤んでいない。ただ困惑しながら彼を見つめている。

「どうした?」

 彼女は彼に対して何も疑問を持たず、首をかしげた。

「どうしてそんな辛そうな顔をしている?・・・不快だったか?この話。だとしたら、謝る。・・・忘れてくれ」

 彼女は心配そうに、それで笑ってみせた。でもレイシーの欲しいのは、あの慈愛の顔だ。女王に全てを捧げようとする、捨て身の笑顔が欲しかった。手だけじゃ足りない。

「・・・・放せ。カップが持てない」

 エリエステスはようやく彼の異変に気づいた。
 しかし、もう遅かった。

 ・・・エリエステスは話すべきではなかった。彼の中に何かがずくずくと芽吹いていく。

「・・・ごめん。・・・いや、何でもない」

 だがレイシーは芽をむしり取った。そして自分に言い聞かせる。何もない、何も。

「エース」
「なんだ?」
「できれば・・・一緒に。世界の舞台に立ちたい」

 レイシーは手を引き、元の位置に座りなおした。エリエステスも表情を戻し、白い歯を見せて笑った。

「ああ。そうだな。お前となら、心強い」

 エリエステスは頷くと、カップを持って立ち上がった。レイシーは黙って動作を見守り、目を遠くへ移した。象牙色をした壁の向こうに何かがありそうだった。それは彼女の求めているものだろうか。それとも、彼が欲しいものだろうか。

 喉が渇く。物理的な乾きではなく、心が渇望している飢え。何を飲み込んだら楽になれるだろう。レイシーは目をつむり、心の深くに潜む自分に問いかけた。答えは返ってくるだろうか。

「エース」
「呼んだか?」
「・・・・いや・・。・・・訓練に行かないか?」
「・・・・・・」

 レイシーは気配の消えたキッチンに耳を傾ける。ここからエリエステスの姿は見えない。レイシーは使っていたカップを取ると、立ちあがった。緊張して座っていたせいか、体中に痛みが走り思わずよろけてしまいそうになった。

「エース・・・・」

 レイシーは壁を掴み、少しよりかかった。なぜ今日は一つも歯車が合わないのだろう。あれほどにまでこれまで快活に、当たり前のようにかみ合っていたものが合わず、痛いと訴えている。このよろめきは、恐らく体内の悲鳴でもあるのだろう。レイシーは歯を食いしばるとキッチンを覗いた。

 何も入っていないシンク、カップしか置いていない食器棚。インスタントのお茶とコーヒーだけが色を持っていた。

 二人も入れば狭くて息のできない小さな空間に、エリエステスはぼんやりと立ってシンクを眺めていた。ぽとりと水滴が落ち、間抜けな音が響いた。

「・・・何かあったのか?」

 レイシーは壁に寄りかかり、彼女を見つめる。似あわないカーディガンが風に揺れ、思い出したようにエリエステスは顔を上げた。

「・・・いや、何でもない。ちょっと・・・用事が、な」
「そういえば・・・。・・・すぐに終わる?」
「わからない・・・・」
「・・・その用事、今日じゃないとダメなのか?」
「・・・・どうだろう」

 エリエステスはカップを洗い、布巾の上に置いた。始終無言だった。終えるのを見守り、レイシーは再び口を開けた。

「やっぱりおかしい。今日のエースは変だ」
「・・・・レイシー」
「ん?」

 エリエステスは手を拭くと、上目に彼を見た。エリエステスは女にしては大柄だが、レイシーと並ぶとやはり小さい。紫紺の瞳は少し釣り目だが、やわらかいとろみを持っている。どうやっても、彼女は女の部分が多すぎた。レイシーは目をそらそうと思ったができなかった。日に透けて、彼女の瞳はサファイアに輝き、それは抗えないほど魅了してくる。

 でもくちびるは戦慄いている。恐れているのだろうか・・・何に?紫紺の奥に何かないだろうかと凝視したが、何も出てこない。言葉を待つだけだ。

 どれだけ待っただろうか。

 カーテンが翻り、太陽は一瞬雲に隠れた。外から人々のざわめきが聞こえ、チャイムがひっそりと鳴った。

 ごくり、とエリエステスの喉が鳴る。

「・・・お前は・・・・自分を、健全だと信じ込んでいる狂人ではない、と言えるか?」
「・・・え・・・?」
「・・・・・狂人ではない・・・狂ってないと、言える?」

 それは何を意味するのか。彼女は多く言わない。ただ待っている。紫紺の瞳が、自分の回答を。

「・・・・俺は・・・」

 健全だと信じている狂人とはどういうことだろうか。自分が狂っていないと、信じているとは。信じているということは、自覚しているということか。それとも、信じるあまりに気づいていないのだろうか。どれもが正解で、どれもが違って見えた。この問いかけは、答え以上に「色彩」を含んでいた。

 俺は、とレイシーはさらに続ける。もう数十分と時間が経ったような錯覚を起こす。しかし実際に、雲はわずかにしか動いていない。今日は風が強い、それでも雲はのんびりと浮遊する。

 レイシーは目をつむり、答えを取り出す。

「俺は・・・少なくとも、狂人ではない・・・と、思う」
「そうか」

 彼女の相槌は思いのほか早く返ってきた。見ると、彼女はいつもの笑みを浮かべている。太陽の白さと同じ、真っ白な笑顔だ。雲ってなどいない。たとえ雲が覆い隠そうと、風が吹き飛ばしてくれよう。

 レイシーも元の笑みを浮かべる。多分、いつも彼女に向けている表情をしているだろう。

「訓練、行こうか」
「用事は?」
「そんなもの、忘れた」

 エリエステスは上着を脱ぐと、いつものジャケットを羽織った。それだけでいつものたくましいエリエステスが蘇る。

「行こう」

 二人はお互いにほほ笑むと、扉を出た。


 エリエステスの笑顔で、不穏な質問はレイシーの中に溶けるように消えた。
 しかし彼は思い出し、嘆くことになる。
 いつでも間に合わない。彼女の心に。
 そして負ける。
 女王の力に。








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