| ウナはゆっくりとまぶたを開けた。長い夢だった、と退屈げにあくびをする。 ここはどこの世界でもない、現実の時代。空の見えない小さな部屋でウナの意識はようやく戻ってきた。部屋は紅を基調とした内装で、密閉されたオーブンの中のようで息苦しい。灼熱の国、シャワルとはよく言ったものだ。 ウナは片目をさする。痛みはない。そういったものはすでに捨てた。だが思い出が残っている。記憶という記録が残ってしまっている。 女王の力の断片が見えた時、吐き気がしたなとウナは遠い日を思う。元々暴力を受けていた体にはいくつも傷跡があった。目もその一つだ。決して治らない痕跡。傷という記録。人に暴力を振るうというのはそういうことだ。それがある日あっという間に回復し、両親は茫然としていた。両者の間に言葉はなかったはずなのに、ウナの頭には二人の声がはっきり聞こえていた。 この化け物。 ショックは受けなかった。むしろそうであるべきだ、そうなのだという肯定の思いが浮かんだ。体も心も自分のはずなのに、違う入れ物に入れられたような気分になった。だからだろうか、考えもどこか人事だった。 そうしているうちに迎えにきた軍人に、両親は殺された。次期女王候補に傷をつけたからと、秘密を封じるため。ウナという事実を消すために。面白いほど、何の感慨も浮かばなかった。すでに預言は始まり、全ては茶番と化している。 「ずっと、茶番劇の世界」 むせかえるほど甘い花の匂いが、再び、現実という名の未来の夢を見せた。 ブルーオブゼロ 1 睡蓮がラスティカ軍に馴染むまで時間はかからなかった。脱脂綿が水を吸い込むより早く、睡蓮たちは軍に組み込まれていく。というのも、マレルーナが手早く執り行ったからであろう。睡蓮という組織があることすら最近まで曖昧であったのだが、マレルーナは彼らを知っていた。――知らないのは盲目のエリエステスだけかもしれない。世界は彼女が思うほどきれいではなかったのだが、それはまた別の話だ。 さらに五賢者も了解し、事は恐ろしいほどのスピードで進んでいく。ありとあらゆることがまるであらかじめ用意されいたように、一つの仕掛けでいくつもの道が開かれる。誰も何も言えず、言う隙も与えず、戦という炎は軍を燃やしていった。それが国全体を巻き込む日は遠くない。小さな火はすでに外に飛び出し、ぐずぐずと燃やし始めているのだから。 「ユーリィ・ウルフ、という男をご存知でしょうか」 出陣前の会議。睡蓮リーダー、エルーダは凜とした声で、しかし少し声を潜めながら訪ねた。ぐるりと見回す顔に視線が纏わり付く。大半が知らない、という顔をしていたがエルーダは「そうだろうな」と軽く呟きをもらすだけだった。それでも僅かに反応したものが数人いた。その中の一人である三軍大佐、ミースが忌々しげに口を開く。 「運び屋、と呼ばれる男がいると聞いた。詳細は知らない。だが……物騒な名、という事は明確だ」 「情報を運び、時には死を運ぶ。中々、洒落たことをする男じゃないか」 わざわざ声をひっくり返し、皮肉そうに続けたのは二軍大佐ライスだ。大げさに肩をすくめ、エルーダを見据えている。軽薄な顔だが目つきは真剣だった。エルーダはそれを見つめ返し、ゆっくり頷く。 「その通りです。言われたことは何でもやる男。睡蓮はその男を雇っています」 「なぜその男の名を?」 「もちろん、戦に勝つためです。私たち睡蓮の最終目的はシャワルの解体。シャワルは根本がすでに崩れています。一度取り壊す以外再生はありえません。それに、一度潰さない限り色彩の恩恵は蘇らないでしょう。女王が忌むべき存在を消さなければ」 エルーダの視線が僅かにエリエステスを向くが、エリエステスはラスティカの軍人らしく、黙って聞くだけだ。 「恩恵が全てだとは言いません。おそらくはこれくらいしなくてはシャワルはだめなのでしょう。そのために、本気で戦わなくてはなりません。そのために彼を雇いました」 「君たち睡蓮が率先すべき事項はシャワルの解体、私たちラスティカは女王候補の奪還。目的は合うが」 そう言うミースの顔は渋い。くしゃりとつぶす眉間の意味はエルーダはわかっているが、それでも瞳を光らせる。 「ユーリィは確かに、色彩の世にふさわしくない男です。平和を約束された地にも関わらず、殺人行為まで成し遂げる。それによって自分の血肉になりえるはずがないのに、彼はそうした行為を食事と同じように不思議だと思わない、まるで本能のように行う。だからこそ最後まで逃げずにやり遂げる……これはラスティカ軍に見せる、私の最後の誠意。私は戦う」 それが誰に、何のために投げかけられた言葉か。誰もが「当たり前だ。戦は始まっている」とすでに理解している。にも関わらず、エルーダは心の底にしまっていた箱を開くように強く、発言した。 ひと時の静寂が流れる中、参謀にしては若く、小さな生き物のような姿のマレルーナが子供のように笑い声を漏らした。単なる街娘にしか見えないマレルーナの腹は見えず、一同は訝った。 「誠意、しっかり受け取りましょう。ユーリィでしたらよく知っています。内容の詳細はあまりわかりませんが、彼の成してきたことは聞いています。彼がいれば、こちらの勝率は上がるでしょう。ただ、私たちは勝つよりも先に奪還という使命があります。それを忘れずに」 「もちろんです、マレルーナ少佐。解体は奪還の後、行います」 「ええ、ええ、了解です」 マレルーナはなお子供のように笑い続けるが、やがてぴたりとやめ、一歩後ろへ下がった。 「では、大抵はこれで決定としよう。睡蓮は一応ラスティカの軍として動いてもらう。一軍と共にシャワルへ進行、城へと向かう」 語尾を強め、ミースはぎろりと血走った目をエリエステスに向けたが、彼女は沈黙を保ったまま、緩やかに頷いただけった。ミースは舌打ちでもしたいような顔つきでもう一度エリエステスをねめつけた。 「ところで、エリエステス大佐。マルファとの連携はどうなっている?それに、他国の動きは」 「他国の動きですが、今のところ戦に加わらないそうです。ただ、いざというときの武器や食料の提供などはしてくれるそうです。ささやかな支援ぐらいで、全面的には助けてくれないそうですよ」 言ったのはマレルーナだった。まるで、授業中寝ていた友人に教師の出す問題の答えをこっそり教えるように言った。対するエリエステスは虚ろな半眼のまま、またも静かに頷いただけであった。なので仕方なくマレルーナが続ける。 「マルファも同じです。あの時持ち上がった話以外、進展はあまり見られません。ただし、こちらは他国に比べると戦にいくつかは参戦してくれるようです。マルシャル自ら動くと、申し出がありました」 「まったく、これから血を見る争いだというのに、穏やかなものだな。とはいえ、私自身もこれが夢のようでどうにも実感がわかなくて困っているが」 ライスの言葉は一同の心と同じだった。誰もが言葉でしか知らないことを体験する。未知との遭遇について誰もが浮遊している。真剣に聞く軍人の目はまだ穏やかさすら見えていた。仕方のない話かもしれない。色彩の平和は絶対だ。それが崩れているとは、誰も信じられない。疑うことすらなかった世界は今は黒に近い灰色に染まっている。 「そもそも、シャワルの動きがなさすぎる。宣言から大分経つが、進軍はなし。城の動きどころか国内の動きもいつも通りだ。どこにも火は見当たらない」 何もかもライスの言う通りであった。シャワルのディアンダは沈黙し、暗雲はあれどそこから降り注ぐ雨はなし。それぞれの国と同じく静かに月日を重ねている。 「それでも、黒に染まりつつある」 辺りがざわついた。それぞれ思い思いの独り言を漏らし、目くばせさせる。その中心に浮かび上がるのは、エリエステスの筋骨隆々とした肉体だった。ようやく目覚める、紫紺の瞳。光を見せた眼差しは獣の気配を吐き出す。誰かが唾を飲み込む音がする。いつの間にか沈黙が降りていた。 「シャワルが沈黙を続けるのであれば、ラスティカが動けばいい。それによって国民の不満を買おうと、シャワルの罠にはまろうと、それによってラスティカ軍が汚名を着ようと、全ては関係ない事」 刃のような声を発しながらエリエステスは立ち上がる。先ほどまでいるかいないか、生きていることすら疑われた姿はどこにもなく、ただひたすら強くその場に君臨する。その顔に迷いはなく、瞳には誰も映らない。鮮やかな色だけがエリエステスを支配しているように見えた。 「私たちは色彩を取り戻すべく、シャワルを撲滅する」 「待て、エリエステス大佐。シャワルの沈黙は向こうに女王候補がいるからであろう。この場合の罠、いや、どの罠についても必ず女王候補を入れて来る事は明白だ。私たちはまず女王を取り戻さなくてはならない。殲滅は後でいいだろう」 「罠があることくらいわかっています、ミース大佐。だからこそ殲滅を行う」 「では、君は女王候補を見殺しにするということか。矛盾している!」 珍しくミースが叫んだが、エリエステスの瞳は変わらなかった。強い光を放ちながら、彼女は迷うことなく微笑んだ。 「その通りです」 「ふざけている!何のための、なぜ起こった宣言か!私たちがまずやるべきことが何かわかっての台詞か!」 「わかっているからこそ、言っているのです。どちらにしても、ディアンダは次期女王を殺すでしょう。遅かれ早かれ。そもそも、進軍する時点で殲滅を宣言しているも同然。シャワルが罠を発動させるのは明白。ならばこそ、殲滅を先にしてもいいでしょう」 「矛盾だ!」 繰り返される単語と共にミースの額に血管が浮き立つ。それでもエリエステスはしれっと受け流し、かつての幼馴染へ振り向いた。 「睡蓮のメンバーはシャワルをよく知っている。先頭に立ち、我らを先導してほしい。第一部隊には私が参加する。そして、城へ向かうのも私の部隊のみでその他軍は恐らく湧き出てくるであろう、敵軍を食い止めてほしい。ディアンダは女王だけでなく国も欲するだろう。トップに立つためにはここにいた方が都合がいいからな。女王になる、すなわちラスティカを手に入れることになる」 「ま、待ってくれ、エリエステス大佐。俺たちが先頭に立つのはいい。それよりも、ミース大佐やライス大佐が言う通り、向こうには女王候補だけでなく、色彩の鍵と呼ばれる人もいるんだろう?二人に何かあった場合、どうする気だ。この戦のゴールはそこだろう?確かに、進軍する時点で想いが矛盾しているが、それでも事を」 「私の意見は変わらない」 「それはどういった意味なんだ?女王候補も色彩の鍵もどうなってもいい、みたいに聞こえる」 焦るエルーダの声にライスを中心とする軍人が頷くが、紫紺の瞳が見せる意思は何一つ変わらない。強い瞬きだけが、全ての答えだった。 「好きなように受け取ればいい。とにかく、時間が惜しい」 「説明を、エリエステス大佐!」 「では、こう言い換えさせてもらおう。これは預言だ。先代女王と巫女たちの意思である。私は女王が選んだ人間。私の言葉は女王の意思だ。預言はシャワル殲滅を見た」 「預言など聞いてはいない!そんな戯言を信じろというのか!」 ミースのヒステリーは限界に達しているように見えた。しわ一つなかった顔は今までの鬱憤を見せ付けるかのようにくちゃくちゃにつぶれ、太い喉は次々と言葉を吐き出す。エリエステスはそれを何一つ受け取らず、ひたすら自分の言葉を続けた。 「女王は死なない。死ぬのは色彩を汚す、ディアンダだ」 深く、低い声は全ての人間の心を突き刺した。獣の吐く、血の混じる熱い息は軍人の心を冷やし、体を深くえぐり出す。エリエステスは白い歯を見せ付けると、黒髪を振り乱した。紫紺の瞳が何度も点滅し、赤いマントが炎のように翻る。 「シャワルを殲滅する!」 高らかな声はディアンダの宣言よりも強く、城に響き渡る。赤い回廊を付きぬけ、軍人たちの声は漣のように震えだし、揺らぐ波は大きな掛け声となり戻ってきた。 こうして全ての駒がそろい、ラスティカとシャワルの構図はますます明確なものとなる。ラスティカ軍は敵本陣へと出発し、剣を掲げた。シャワルへの道は赤く染まりつつある。 しかし――シャワルはまだ飛び出してこない。ディアンダはくつろぎながら笑っている。 |