| 月が隠れる。浅い闇が訪れ、エリエステスは木にもたれかかった。息が白い。たぎる体で気づかなかったが、辺りは深々と冷えているらしい。吸い込む度に新鮮な空気が体中を駆け巡る。それはとても心地よく、このまま眠ってしまいたくなる。しかしそうもいかない。早く追いつかなくてはならない。 しかしもう少し夜露で体を冷やすのもいいかもしれない。エリエステスは額から髪をかきあげると、まぶたを閉じた。 シャワルの隠密は大したことなかった。多少傷は負ったが、体に異常はほとんどない。かすり傷と少々の疲労感のみ。明日に支障はない。 エリエステスはもう一度深呼吸すると、僅かな足音が聞こえ、急いでまぶたを開けた。気配を尖らせ、糸を張りめぐらせる。殺気はないが、だからといって敵ではないという保証はない。 「エース」 「……レイシー?」 気配の糸がたわむ。それは安堵というより疑問の方が大きかった。その声は間違いなくレイシーのもの。僅かな光源で煌めく髪と長身の体も間違いなく、悲しそうな瞳も間違いなく、レイシーだ。どうやっても間違えようのない姿に、エリエステスはしばし凝視した。 レイシーはエリエステスの傍まで近づくと、隣にゆっくりと腰かけた。まるで戦争などどこかに消えてしまった幻ように、いつか感じた遠い日が蘇る。ここは夢かもしれない。 「無事でよかった」 「どうしてここにいる。お前はエルーダたちと先に行ったはずだろう」 見ると、レイシーは瞳を歪ませますます悲しみをあらわにした。どうしたんだろうと思ったが、何も言わなかった。 「どうしても気になって、戻ってきてしまった。大丈夫。エルーダには言ってある」 「私が倒されるはずないだろう」 「わかってた。それでも戻りたくなったんだから、しかたない話だろう?それに、敵はこれだけじゃない。影を倒したからといって、次が出てくる可能性は高い」 「それはエルーダたちも同じだ。なおさら、お前はこちらに来るべきではなかった。早く行こう。休んでいる間はない」 立ち上がろうとするエリエステスの手を、レイシーは拒むように捕まえた。エリエステスは眉間にしわを刻んだが、彼の表情は涼しいまま、動かなかった。手は異様に熱く、熟れているように浸食する。しかし力はすぐに解け、二人は立ち上がった。 道中、会話はなかった。月光は隠れたまま、肌寒い闇が深く続く。悲しいまでに静かで、隣に誰がいるのかわからないほどだ。 空を仰ぐ。深淵の闇が続くばかりで星はない。色彩の世は徐々に終わりを始めている。二人の間にも終わりという亀裂が走っていた。 ブルーオブゼロ 9 夜は容易く明けた。誰が合図するわけでもなく戦いは始まり、太陽が真上を昇る頃には何十人、何百人の屍が頂を目指していた。 摩耗していく戦いの中、軍人たちの精神は尽きかけていた。虚ろな瞳は何も映したくないとばかりに拒絶を起こし、耳を塞ぎ、常識の神経を一本ぷつりと切る。こうでもしないと、とても保つことができない。それを人々は無意識に行ったが、中には現実を受け入れすぎてのたうつ者もいた。 赤い炎が点滅する。白濁とした怒りが込みあがる。体中が青に染まり冷えゆく。呼吸する音がうるさい。上下する器官をつぶしてしまいたい。内臓を全て放り投げ、機械の体になりたい。血が醜い。肉塊が醜い。声が、匂いが、五感を刺激し、毛穴一つ一つに悪意が詰め込まれ、頭の奥にある神経が拷問のように断絶される。 ――平和だけが真実の世界。 ――女王だけが真実の世界。 ――色彩の女王が紡ぎだす、永遠の極彩色。 ――それが世界の全て。そうして世界は保たれる。ぬるま湯の中で。 誰もが感じた。誰もが痛感した。思わずにはいられない。これが争うという悪意。色彩の女王という檻から出た世界。汚濁にまみれた、異臭の世。 「ここが、私たちの目指した世界?この後何を得る……何のために戦う?一体、誰が喜ぶんでしょうかねえ……?」 誰に問うわけでもなく、マレルーナは自嘲気味に笑ってこぼした。抱える頭は異様に熱く、血が沸騰しかけている。 ――女王のぬくもりしか知らない色彩の子供たちは愕然とするしかない。 ――母のぬくもりしか知らない子供たちは怯えるしかない。 どれがどういった真実であろうとも、今は生き残るという目的しかない。血はすでに流れ、命は消えゆく道を辿っている。引き返すことも進むことも許されず、人々は戦うという原始的な生き物になり果てるしかないのだ。 マレルーナは背筋を震わせた。女王奪還、シャワル討伐、全てが恐ろしいほど瑣末だ。この先の未来がどうなろうと、女王だけは生き残らなくてはいけない。この世界を彩る色彩を放つ女王がいれば全て済む。色彩の恩恵すらあれば。 「ああ……逆にこういう考えがあるから、反発も生まれるんですよねえ。なんか、納得しちゃったかも」 マレルーナは再び自嘲すると、喉を鳴らしながらゆっくりと安息の眠りへと落ちて行った。数日、ほとんど眠っていないのだ。まぶたを閉じればすぐにそれはやってくる。だがすぐに体を揺さぶられ、安眠は妨げられる。暗鬱な眼を無理矢理覚まし、顔を上げると恐らく同じ顔をしているであろう、ライスの顔があった。いつもの皮肉げな笑みはなく、疲労で憔悴の色をありありと見せていた。 「なんでしょう、ライス大佐」 「睡蓮の情報だ。エリエステス部隊はシャワルに入った。途中、影との戦闘があったとの報告だ」 「シャワルの暗殺部隊ですね。それは、エリエステス大佐たちが倒したということですか?」 「恐らく。とはいえ、何人いるかわからない状況だからな。警備はまだ厳重にした方がいいだろう」 「ですね。他に報告はありますか?」 ライスはマレルーナの隣に腰かけると、数日で随分と生えた顎髭をゆっくり撫でた。 「あと、シャワルを迂回して謎の馬車が走っているという情報もある」 「謎の?それはまた、曖昧な表現ですね。うちの国じゃないことは確かですけど。他国については、参戦しないと言っていますがねえ。マルファを抜かして」 最初、マルシャル自ら赴くことについて驚いたマレルーナだが、よくよく考えればよい話である。マルシャルというトップをすぐ側に置いておく事はある意味人質に近い。それをマルシャル自体わかってはいるだろう。だからこそ危惧。何を考えているのかまるでわからない。意図も知れない。だが、すでに時は過ぎており、現在ここにマルシャルの姿はない。あれやこれや思ったところで現在も未来も動くはずはなかった。今のところ絶対の味方であるマルファ――剣は……諸刃である。馬車の正体がマルファということも大きい。何にしても、彼は何かを企んでいる事は確かだ。それはエリエステスも同様、彼女も絶対の味方にして一番の不審者でもあった。 不穏分子であるエリエステスとレイシー。二人が同時に存在することによって生じるものが必ずあると、マレルーナは予測している。そこから釣れるものは大きく、同時だからこそ打破できる力技がある。 「私はどちらでもいいんです。どう転んでも私たちは勝ちますよ」 「大した自信をお持ちだね、少佐」 「だって。私は馬鹿じゃありません。何も知らない無垢な子供ではありませんから。私はすでに未来を用意してあるんですよ」 秘密をたっぷりと含んだ女の顔は、ライスをぞっとさせるのに十分な表情をしていた。 枯れ草続く黄ばんだ道は終わったが、そこは同じく荒野であった。人の足跡だけが残る土は辛うじて人の気配を見せる。崩れた石壁は直すことなく放置され、黄土色の草がしょろりと二、三本生えていた。ただそれだけの光景が眼前に広がる。しかし今は感想を述べている場合ではない。エリエステスたちはひっそりと息を潜め、街の一歩手前で立ち止まった。 「ただいま、エルーダ。偵察に行ってきたよ」 なんの緊迫感のない姿はユーリィであった。エルーダは彼を引き込むと、木の陰に腰掛けさせた。今更な話ではあるが、彼の姿は目立つ。 「それで。どうだった」 「向こうは向こうで、国境付近で争ってる。今のところはラスティカが押してるかな。でもシャワルも結構いい線。我武者羅にやってるよ。ただ、人数も武力も結局負けてるから、負けるんじゃない?シャワルはさ」 「それはどうかわからんが……。うーん、なんだか不思議なんだよなあ。最初からこうした押し合いは負けるって事ぐらいわかってるはずだ。それなのにどうして挑んだのか……。それに、後手になったのも気になる。先手必勝を唱えるわけじゃないが、あんなに宣言しておいて静かなのもな……」 「女王と鍵を人質に取っているからだろう」 さらりと言うエリエステスに、しかしエルーダは首を傾げる。 「どうにも、すっきりしない。何かあるに違いないぞ、これは」 「いい。先に進もう。それで、状況はどうなんだ、ユーリィ・ウルフ」 エルーダは声なく口を動かしたが、エリエステスの表情は変わらず、受け取るユーリィはさらに変わらず、何度か瞬きを繰り返した。 「軍隊が出てこない限り、普通に通行大丈夫。遊びに来ました感覚で通れるよ。こっちが手出ししなきゃ向こうだって見てるだけだし。ねえ、エルーダ」 「あ、ああ、そうだな。そんな気力はないだろう」 恩恵のない土地は自然も人も否定する。色を失ったシャワルの人々は、戦うという意思が街人にないことは遠目でもわかった。エリエステスは頷くと、ユーリィを案内役に、軍人たちを前へ進ませた。 シャワル国に入ると、とたんに甘い花の蜜の匂いが鼻をついた。かぐわしいと表現できるかもしれないが、今は胸が焼けるだけだった。 太陽の国、シャワル。ここも女王の恩恵を受けるはずであった。恩恵を失ってもなお咲き続ける色あせた大輪の花々。潤っていたのならどれほど鮮やかに咲き誇っていただろうか。どんなに美しい場所であるか。想像は難しくないが、現実は厳しい。二度と水を飲み込まないだろう、乾燥した土が全てを物語っている。 「……シャワルはなぜ女王を拒否したのか」 ぽつりと漏らしたエリエステスのつぶやきに、一同は肩をぴくりと揺らした。無惨に土地を蹂躙する草木、躯に近い人々、廃屋のような町並み。なぜシャワルはこの道を辿らなければならないのか。答えたのは、凜と背筋を伸ばしたシェルリだった。 「大佐。そう疑問に思われるのでしたら、なぜこのようになるまで放置……いいえ、なぜシャワルに訪れなかったんですか?シャワルの先代王はラスティカ軍によって密かに暗殺されたことは誰もが知ってる噂にして事実です。その後すぐに国は枯れた」 「シェリー。今はそんな暇ないだろ」 「ヘルは黙って。一度聞きたかったのよ。だって、変じゃない。女王の恩恵がないからって、こんなの。女王の命令がなければ、あなたたちは助けてくれないわけ?女王が見捨てたから私も見捨てるなんて考え、子供だわ」 鋭い目がエリエステスを刺す。迷いも恐怖もない、己の声をしっかりと口に出す。 「この状態を見てそんな顔するなんて、卑怯よ。そんな風に感じるなら、最初から助けてくれればいいじゃない……。そうすれば、私たちの家族は離散しなくて済んだ。ヘルもそうよ。一家離散なのよ……」 シェルリは視線をはずし、子供のように拳を固めてそっぽを向いた。こうした感情を表すのは珍しくないのだろう、慣れた様子でヘルベルドが肩を叩いてなだめた。 「す、すまん、エリエステス大佐」 「いや、いいんだ、エルーダ・ヴェイン。ならば聞かせてもらおう。なぜシャワルは女王を嫌う?」 「私は好きでもなければ嫌いでもないわ。ただ、先代もディアンダも嫌だったんでしょうよ。女王がトップに立っていることを」 「だが、女王は色彩を紡ぐ世界の王。立つのが当たり前だ」 「……当たり前のことを嫌う人もいるのよ。それを思う基準はそれぞれだわ。結局、私は女王でもなんでもない一市民であり、なんだかんだでトップがいないと国はやっていけない、それだけのこと」 それを最後にシェルリはなにも言わなくなった。先を行くユーリィの元に走り、ヘルベルドも続く。エルーダはひきつった顔のまま何度も謝り、頭をかいた。 「困った奴なんだ。昔から気が強くて融通が利かない、頑固者で友達もいない。だけど、これだけは覚えておいてほしい。シェルリたちもまた、シャワルのせいで家族を失ったことを。それが巡り巡ると、女王に行き着くことを」 エルーダの目にほの暗いものがかいま見えたが、彼も先を行ってしまった。エリエステスは軽く目を瞑ると、息を吐きながら進んだ。今は進むことしかできない。それが最善だ。 そうしてエリエステスが自分に言い聞かせている間、レイシーだけがひっそりと冷たい幕に隠れ、人々を見守っていた。 |