何度目かでそれが自分の名前だと気づいた。

 レイシーは面倒そうに振り返ると、そこにはいつもの友人が仁王立ちをしていた。表情は普段のにこやかな顔ではなく、渋柿でも口にした後のような、煮え切らない、怒りともつかない・・・口をへの字に曲げてレイシーを睨んでいた。

「なんだ?」

 レイシーは失笑しながらエルーダの元に近づいた。授業と授業の間なのだろう。午後のゆるやかな時間に彼に会うことは滅多にない。それに先ほど会ったばかりだ。特に用事はないはずだ、と思いながらも呼びかける。

「珍しいな。次の授業はいいのか?」
「行くよ、そろそろ。その前に、一つ」
「どうしたんだ?やけに真面目くさって・・・」
「俺は真面目だ。だから真剣に聞け。・・・・自棄を起こすなよ」
「・・・・・は?」

 レイシーは自分でもこんな声が出るのかと笑ってしまうほど、裏返った声が出た。まじまじとエルーダを見つめると、本人が真面目だと言う以上に彼の顔は張り詰めていた。あの明るいオーラはどこへ行ってしまったのだろう、と思わず探したくなるほど彼は冷たく静かだ。

「なんだよ、それ」

 訪ねても彼から返答はない。エルーダは腕を組んだままの姿勢で少しうつむいた。

「お前、危ういんだよ」
「どういう意味?」
「剣見てると、たまに思う。こいつ、最終的には取り返しのつかないところまで叩きこんで、自分も倒れるんじゃないかって。ようは、共倒れってやつだ。お前の剣、怖いんだよ」

 レイシーは思わず笑い声をあげた。愉快だと頭が思う前に声が出ていた。

「なんだ・・・それは・・・!俺の、剣が?怖い?はは、それはそうだろう。俺は常に全力さ。・・・・相手がエリエステスなら、さらに申し分ない」
「それで、一緒に倒れましょう、か?」
「まさか。そんなこと思ってないよ」
「思ってなくても、どっかにあるだろう?お前のよくわかんない、独占欲。蝶々の標本と同じで、ピンで止めたい・・なんて願望があるんじゃないか?」

 美しいものの時間を止め、永遠に手元で羽ばたく蝶の箱庭。好きな時に好きなだけ眺め、胸に抱く。
 想像しただけで羨ましいと思える自分が確かにここにいた。でもそれは何の比喩に使われているかは想像できなかった。

「とにかく、変な気は起こすなよってこと」
「忠告ありがとう。適当に聞き入れておく」
「上等」

 エルーダは言うだけ言うと、ふらりと風のように廊下の奥へ行った。次の授業が始まるのだろう。

 気がつけばチャイムが鳴っていた。

 なぜこんなにもぼんやりしてしまうのか、レイシーは自分がわからなかった。




       グリーンメモリーズ 6



 ノックの音が廊下中に響き渡る。本来なら、消灯時間を過ぎたら部屋から出てはいけない。本来なら、と表現するように例外もいくつかある。

 何らかの災害や犯罪が起きた場合、学校に何かしらの不具合が生じたとき。規則としてはそうなっているが、教師たちも疲れているのだろう。夜の見回りはない。

 それにこの世界は色彩の女王が紡いでいるのだ。
 美しい色彩は世界を彩り、人々の心を豊かに保つ。犯罪など、そう滅多に起こらない。

 しかしそう思っているのは女王に近い者だけだろう。レイシーはこの偽善さがたまらなく嫌いだ。

「っと・・・・」

 あまり怒ってはいけない。せっかく持ってきた紅茶を入れたカップが壊れてしまう。気がつけば力んでいた手を少し弱めると、扉が開くのを今か今かと待った。

 そう待たずにして扉は開き、いつもの笑顔を湛えたエリエステスが出迎え片方の紅茶を受け取った。

「紅茶か。久々に飲む」

 彼女は香りをゆっくり吸い込むと、じっと赤い飲み物の水面を眺めた。ゆらり、ゆらりと蛍光灯に照らされたなめらかな波がほのかに彼女の白い肌に映り込む。レイシーはぼんやり見つめながら、壁際に倒れて座り込んだ。

 エリエステスはレイシーの向かいにあるベッドに腰掛けると紅茶をすすった。大分ぬるくなったので飲みやすくなっているはずだ。彼女はおいしそうに三口ほど飲んだ。

「おいしいだろ?このお茶」
「ああ。全然渋くなくて飲みやすい」
「母が送ってきてくれたものだよ。近所においしい紅茶専門店があってね・・・その中でもこれが一番おいしい。少し濃い目の紅茶にオレンジの香りがついている」
「ふうん・・・なるほどね。どこに店があるか、また今度教えてくれ」

 レイシーは頷きながら一口飲み、カップを床に置いた。まだ半分以上残っている。エリエステスもカップをベッドの隣にある小さな机に置き、足を組んだ。

「何か用だったか?」
「・・・いや。特にない、と思う」
「なんだそれ、曖昧だな」

 エリエステスはほのかに笑うと、不意に笑顔を消した。

「・・・理由を聞きたいんだろう?私が、卒業せずここを出ていくことの」

 そうかもしれない、とレイシーは心の中でつぶやく。実際、自分でもわかっていなかった。なぜこんなにも執着しているのかまるでわからない。それでもレイシーは冷静だった。今は。

「女王が、私を呼んだからだ」
「・・・・それ、だけ・・・?」
「・・・・言っただろう?私の胸の傷は女王が斬った。それは、私に存在を与えてくれた証。不要な存在である私を求めてくれた女王・・・だから、聞き言れなくてはならない。女王の命令は絶対だ」

 彼女の瞳が揺らめいた。紅茶の水面のように滑らかにたゆたい、透通る。剣を持ち、彼と対峙する手は今は傷口をそっと撫でている。

 レイシーの奥歯が軋んだ。その傷が欲しい。

「もし、俺がこの場でエースを斬ったら。・・・君はここに居てくれる?」
「・・・は・・・?」

 レイシーの手がベッドに伸びる。エリエステスの細長い脚を這い、徐々に忍び寄る。

「・・・・おかしいことを言うな。新手の冗談か?」

 レイシーは自分の背中に黒い塊が乗っているような気がした。塊は重圧をじわじわとかけるのだが、その重みは徐々消えていく。なぜ?それは体にしみこんでいくからだ。じんわりと、熱を持ちながら。なのに体を冷やす。心に到達した時には、無慈悲な存在に変わり果てているかもしれない。

 それでも冷静な自分が必ず胸にいる。

 何をしようとする?

 何がしたい?

 何度も何度も問いかける。エリエステスの顔が引き攣るたびに、罪悪感に似た締め付けが体中を襲う。

 それでも、それ以上に彼女を哀れな存在に仕立て上げたかった。

 自分の手で、女王を引きはがし、新たな傷によって彼女を押しとどめる。

 ふと、蝶々の箱庭が頭の中に転がった。

 エルーダが言う。自棄を起こすな。

「・・・・・うん、冗談。・・・だと思う」

 ぷつんと糸が切れた。その瞬間に黒い塊はどこかへ消えてしまった。冷えていく心は糸が切れたことによって温かみを取り戻しつつある。

 レイシーはベッドに顔をうずめ、ため息をついた。上からエリエステスの笑い声が降ってきた。

「まるで酔っ払いだな」
「悪かったね。・・・・でも当たってるかもしれない。飲んでないけど、俺は酔ってると思う。・・・・酔っ払いもどきの冗談だと思って、聞いてくれるか?」
「何を?」

 エリエステスは隣で顔を伏せるレイシーの髪に触れた。銀とも灰色ともつかない不思議な色合いはまるで上等な絹のように流れている。

 レイシーは顔を横向け、無意識のうちにエリエステスの指をつかんだ。本当に酔っ払いになったようだと思ったが、エリエステスの指の方が熱かった。レイシーは子供のように目をつむり、息を吐く。

「好きだ」

 エリエステスの指が止まる。お互い、顔は見ない。今どういった表情かではない。何を思っているか。いや、そこに自分の影さえ潜んでいればそれでよかった。

 レイシーはもう一度息を吐き、エリエステスの指を強く握った。

「エース。俺は、君のことが好きだ」

 エリエステスの指が再び動く。もがいてもがいて、なんとか抜け出そうとしている。

 レイシーの中にいる冷静な自分が一息ついた。

 拒絶、か。

「・・・酔っ払い」

 エリエステスは笑った。それだけだった。指はあきらめたようにレイシーの手に収まっていたが、何もなかった。熱も変わらない。声も変わらない。日常と変わらない。

 レイシーは顔を上げたが彼女の顔は見なかった。熱い指が一瞬だけレイシーを強く握った。

「・・・・すまない、レイシー」

 指が容易く逃げていった。ひらりと化かされたように、今まで保っていた熱が消えた。余韻すら感じさせない風に、レイシーは顔をゆがめた。笑っているのかもしれないし、悲しんでいるのかもしれない。怒りは不思議となかったが、おそらく醜悪な顔をしているだろうと自分の顔を予想する。

「やっぱり、なんか・・酔ってるみたいだ」
「うん、そうだろう。そうだ、きっと。そろそろ部屋に戻れよ。明日に響く」
「・・・そうだね」

 レイシーは立ち上がり、背を向けた。エリエステスの顔は見たいが、恐ろしかった。

「紅茶、おいしかった。また御馳走してくれ」
「ああ。・・・・卒業まで、いてくれたら」

 しばらくの間があった。レイシーは振り返らず、冷たいドアノブを握った。エリエステスの指から思えば随分と冷たくて凍りそうだったが、自分の指の方が冷たいような気がした。心のどこかが冷えてるのかもしれない。

 レイシーは力いっぱいドアノブを回すと、何も言わず出ていった。

 ふと、背後でエリエステスが動く気配がしたがそれでも振り返らなかった。

「・・・考えておく」

 何について?尋ねようとしたが、ここは自分のいいままに解釈をしようと、レイシーは軽く頷いてそのまま外に出た。

 このまま卒業まで、せめて卒業までいてくれるだろうか。考えておく・・・それは卒業までいるということか、期間を延ばすということか。

 だが卒業した後は?

 自分はどこへ。彼女はどこへ。友人、エルーダの行先もわからない。

 結局のところ、動きたくないと我がままを言っている子供にすぎない。

 レイシーは廊下を歩きながらため息をつく。

 今頃になって、指が熱くなってきた。










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