残されたものは何もなく。胸に積もる想いだけが体と心を縛り付ける。血の匂いだけが真実で、痛みだけが事実。

 この悲しみはなんだろうか。何もかも、自分という殻から乖離していく。

 故に、ここには何もない。全ての希望は消えた。

 ああ、そろそろ私も消える時が来た。



           ホープフォーインディゴ 1



「何やってんだよ、クソエース」

 震えるまぶたに振りかかるのは優しい声ではなく罵倒。低く、全てを責める声にエリエステスはゆっくりと覚醒する。目を開けなくともそこにいるのが誰かわかっていた。

「ぴいぴい言わないでくれ、ベリーちゃん」
「むかつく口は健在みてーだな」
「そういうお前の悪態も。無事な上に元気とみた。助かってよかったな……」

 エリエステスはかすれた声で僅かに呻くと、無理矢理まぶたを開けた。隣から見下ろしてくるのは案の定、パディであった。相変わらずと言うと怒られるだろうが、少女にしか見えない。いつもなら無愛想に歪んでいるが、今はくしゃくしゃにつぶれかけている。白い顔にはいくつか擦り傷、体にも赤い痕が残りラミィを庇った時に傷ついた部分だけが仰々しく湿布と包帯で真っ白に固まっていた。崩落の中でたったこれだけの負傷で済んだのだ、やはり彼は鍵なのだ。

 ゆるり、と顔を動かす。まだ焦点がうろんな目はパディ以外何も映さない。ただ、助かったという思いだけが文字となって浮かぶ。まるで何もかも夢だったように、現実はひんやりと冷たく静かだ。それも束の間、パディの黄色い声が耳を刺す。

「お前、わかってんのか。何をやったのかわかってんのか!?どうしてラスティカに剣を向けたんだよ。どうしてマルシャルを堂々と助けた!?クソ、あほか……っ」
「顔と悪態が合っていない」

 エリエステスは笑おうとしたが、顔の筋肉がうまく動かなかった。自分の顔に触れようとしたが、手に感覚がほとんどない。上がるようだが、指先の神経が麻痺しているのか――辛うじて、顔や体を覆う包帯のざらつきは捉える事ができた。ほんの僅かにしか動かない体を動かすと、シーツの衣擦れ音と軋む音。ベッドに寝ている、という事までは把握できた。

 問題は場所だった。清潔を保つためのアルコール臭は一切しない。まるで洞窟に閉じ込められたような湿り気と薄闇と圧迫感。だが、そこまで把握せずとも目を覚ました時からここがどこであるかわかっていた。生きているのであれば、必ずここであろうと崩落の中最後に思ったのだ。

「ここは牢屋か……。はは、そういえば城には滅多に使われない地下牢が存在したな」

 自分の記憶を垣間見るようにまぶたを閉じ、口の端で自嘲する。パディは何も答えなかった。

「当たり前だな。マルシャルを逃がし、ラスティカに剣を向けた。この私が、だ。女王に忠誠を尽くし、城を任されたこの私が誰よりもあっさりと、ラスティカを裏切ったんだからな……笑えない話だ」
「冷静に何言ってんだよ」

 ぴしゃり、と遮られる。あれほど興奮していた声は研ぎ澄まされたナイフのように、すっかり冷たくなっている。エリエステスは驚いてパディに顔を向け、さらに驚いた。

 パディの翡翠の目には水がたまっていた。あふれる水はエメラルドのように輝き、殺風景な牢屋を美しく彩る。それは色彩の復活を見せてくれているようで、エリエステスの心を和らげた。黒く染まる世界でたった一つの希望……それがエリエステスにとってのパディだった。

「色彩の鍵……」

 エリエステスは手を伸ばすと、パディの頬を撫でた。嫌がるかと思ったが、彼は受け入れ、それどころか手を握り返した。恐らく、初めてであろう。二人の心が通じたのは。女王を崇拝する想いが女王を導く鍵へと流れ込む、歴史の一ページ。こうして世界は紡がれるのだと、エリエステスは信じて、言う。

「聞いてほしい……世界の色彩を伝える者よ……」

 パディは頷いた。エリエステスは安堵の息を漏らすと、天井に目を映した。暗闇に映るのはかつてのスクリーン。麗しい日々が唯一、エリエステスをエリエステスとして生かしていた時代が眼前に広がる。白き塊が露になる。

「私は死ぬべき人間だったんだ……。三人目に生まれ、しかも女だった私は死ぬ以外の選択肢はない……貴族とい場所を選んでしまった私に生きる道はなかった。けれど、女王が生かしてくれた」

 エリエステスの鎖を食いちぎる女王の腕はあまりに優美で、見たこともない色彩を放っていた。虹も打ち勝つことのできない瞬きは今でもエリエステスの中で一等輝いている。エリエステスはそれをそっと掴む。

「傷をもって、痛みをもって私を生かしてくれた。その時から私は女王のために、私の存在を認めてくださったゼファーナ様に全てを捧げると天に誓った」

 女王は未来を見ることができる。これも女王の見た夢の未来なのだということは後なって知った。女王の意思でそうしたのか、それとも未来でそうだったからこそ選んだのかはわからず、女王がそれを言うことがなかった。それでもエリエステスは女王を恐れるどころか心酔した。そうでなくては生きていかれなかったのだ。

「嬉しかった。こんな私でも必要としてくれる人間が、それも女王であるお方が私に全てをくれた。だというのに……私は……健全であると信じている狂人に過ぎなかった」

 包帯から熱いものがにじみ出る。それは血か涙か、エリエステスにはわからなかった。

「だというのにある日……あれは学生の頃……気づいてしまったんだ。あいつに出会って、私は知ってしまった……。私は、私は、女王のために生きたくて生きたくて、女王の全てが愛しい……女王だけが真実だった……」

 青み帯びる銀色の冷たい風。それは徐々に髪に、姿に、少し拗ねた表情に変貌する。彼の姿は幼かった。負けてばかりの、出会った時の初々しい姿。幻に手を伸ばす。そんな己の手すら幻影に過ぎなかった。

 翡翠色の瞳がエリエステスの言葉をゆっくり飲み込んでいく。エリエステスは微笑む仕草をしてみた。顔は相変わらずうまく動かない。

「私は愚かな人間だよ。愚かで弱い、単なる女だということを知った」

 かつての光景はすでに幻。二度と手に入らない瞬き。だからこそ、矛盾にも女王を求める。女王だけがまだ真実として残っている。エリエステスは心の中で伸ばした手を下げた。

「ショックだったな。あいつがマルファでマルシャルになった時……。てっきり、私と共にラスティカの軍人になると思っていたのに。隣にいて、共に同じ方向に剣をかざすと勘違いしていたんだ。ああ……あいつと共に歩きたかった……」

 エリエステスの喉からくつくつと笑い声がこぼれる。静かな部屋に悲しく響いた。

「あいつは女王を否定した。ラスティカを裏切ると宣言した。いつか来るとわかっていた私は心にある誓いを立てた……。剣と殺意を向けられても、私はあいつを守ろうと……」
「エース……。だからって、どうしてあんな場面で。こっそり逃がせばよかっただろ。チャンスはいくらでもあった……はずじゃねぇか」
「私は欲張りなんだよ、ハニーちゃん。あいつを一番に守りたい。けれど、部下も大切だ。誰も失いたくない……。ラスティカを攻撃するあいつ、あいつを攻撃するラスティカ。その構図を断ち切るために、あの場面が一番最適だったんだ」
「馬鹿か……!つまり、それはお前が全てを被るんだぞ!?」
「そうでなければ、私はあいつを殺す役割になっていただろう。……殺せるはずがないだろう?私にとって、光だったんだ。あいつもまた、女王とは違う、生きる道を導いてくれた。だけどすでに女王に出会ってしまった私は、あいつを選択できない。だから」
「うるせえ……!死にたいのかよ!今、どんな状況になってるかわかってんのか。ここがどこか、わかってんのか!?」

 珍しく感情をあらわにするパディに幾分か驚きつつ、それでもエリエステスは笑うのだった。残された感情は、笑うことだけだ。

「わかっている。私は全ての首謀者として牢屋にいるんだろう?火を放つシャワル。シャワルを利用したマルファ。マルファと手を繋いだ私。ラスティカに剣を向け、マルシャルを逃がした。はは……なんてすっきりした構図なんだ。私は死刑にでもされるのかな、ベリーちゃん」
「んだよ……何でそんなに笑ってるんだよ!殺されるかもしれねえってのに……!」
「悪いが……私は、それを本望だとしているんだ。だから、泣くな」

 いつの間にか、パディの頬には一筋の涙が伝っていた。エリエステスは包帯の指先で染み込ませると、頬を何度か撫でた。初めて見る、爆発した彼の感情はどうして今爆ぜたのだろうと、心は違う方向を見ている。否、彼はいつでも感情的ではなかったか。そうだ、彼は素直だ――エリエステスが言いたい事もやりたい事も、彼は難なく言っていた気がした。

 何もかもが遠い。

「死にたいのかよ!そんな事が……っ。お前の願いなのか!」
「そうだよ、ベリーちゃん。私はずっと狂っていた。女王がいない世界ならば、滅べばいいとすら思った。女王の恩恵のない世界は、私にとって耐えられるものではない。女王のために生きると言ったこの体も内臓も心も、苦しいんだ……。わかってほしいとは言わない。だけど、知っていてほしい……OK?」

 パディは首を振り、全力で否定した。わがままを言う子供のような仕草に、エリエステスは苦笑するしかできなかった。起こせる体ならば、パディを抱きしめていたかもしれない。

「私の女王は……私が殺し……ウナ様が女王として城に入り……けれど力は薄く……。いずれウナ様が力を発揮すれば、ゼファーナ様も蘇り、色彩の世となるだろうと……どこかでウナ様を利用していた。しかしゼファーナ様の世界が来る事がないのであれば……ならばせめて、女王たちが恐れる異質を、女王という存在を守ろうと」

 赤い光景が眼前に広がる。あれは誰の血か。多くを殺してきた手は痺れ、目は赤という色しか映さない。

「私は五賢者を殺した。女王を異質と知っているからだ。彼らが捕らえた時、女王の異質さは露見する。私は多くの人間を殺した。女王に歯向かうからだ。彼らはいずれ、女王という存在を片っ端から詮索して暴露するだろう。私は世界がこのまま燃えればいいと思った。女王を排除した世界だから。女王を知る全てを……殺したかったのかもしれない……」

 矛盾。こればかりが繰り返される。エリエステスの心はすでに分離していた。いつからか、明白な時はわからずとも、学生の頃に生じた事だけはわかる。

 何もかも女王の全てを知り尽くし、しかし女王を妄信する己は狂いだと知ってしまった。そんな自分こそ、消すべき最後の駒。

「じゃあ、俺も殺すのか。俺は全部知ってる」
「……矛盾だな。恐ろしいくらいに、繋がらないよ。私はお前に未来を託したい。けれど、女王を知る者は消したいと……己すら殺したいと願う……」

 エリエステスはまぶたを閉じた。再び、冴え冴えとした静けさが舞い降り、誰もいないかのような錯覚を覚える。

 どれほどそうしていたのか、パディは立ち上がった。涙はすでになく、生気のない瞳だけが揺らめいていた。

「エース。まだ終わんねーぞ。シャワルは破壊された。これから再建しなきゃなんねえ。ラスティカはマルファを敵と決め、今度はマルシャルを討伐に行く。まだまだ守んなきゃいけないものがたくさんあるだろ。とっとと起きやがれ。そして……二度と気持ち悪いこと言うんじゃねえ。わかったか」

 エリエステスは答えなかったが、パディは逃げるように出て行った。振り返りもしない中、別の人物がふらりとやってきた。彼はパディのように側には寄らず、遠目でエリエステスを見て……蔑んだ。

「……哀れだな、エリエステス」
「その声……ライスか。久しいな。生きていたか。あの戦いの中で」
「何十人何百人と死んだが、生憎と俺は生きている。残念だったな」
「お前の死を願った事なんてないさ」
「だが、俺はお前を殺す。お前の最後が決まったよ。全ての首謀者として処刑され、戦は終わる事となる。ラスティカはそういう決断を下した。……愛しい男を庇って死ぬとはどんな想いだ?」
「最高に光栄なことさ。女王も、あいつも守れるのならそれでいい」
「そうして世界を巻き込んだのか」
「もう一つ面白い事を教えてやろう、ライス。私はな、女王を殺した。はは、墓を見てみろ。空っぽさ。私が殺したとわからぬよう、隠したのだからな。私だけの女王だ」

 ライスは耳だけを吊り上げた。目は収縮され、訝ったがそれに対する言葉はなかった。

「どこまでも狂ってる」

 それだけ言い残すと、ライスも離れてった。逃げれない空間の中で、エリエステスは一人笑った。笑って、泣くことしかできなかった。それだけできればいいだろう。死にゆく者の手向けとしては上等な土産だ。この感情を、この想いを残して死ねるのならそれが一番いい。

「やはり……私はこういう運命なのだな……。私は生まれるべき人間ではなかった。道は正され、私は消える……産まれる瞬間に戻る……」

 意識が消える。深い闇に意識が落ちていくのを覚えながら、エリエステスは女王のエースとしての最後をどう迎えるべきか――決まっていた。


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